源氏川苦心の快楽書肆
古い本を探しては読みふけつてゐます。よければお付き合ひくださいな。
彼方
無題

彼方

J-K・ユイスマンス【著】
田辺貞之助【訳】
東京創元社(創元推理文庫)刊
1975(昭和50)年3月発行


ユイスマンスが世を去つてから110年。代表作といへば『さかしま』、そしてこの『彼方』でせうか。
しかしなぜ『彼方』は、創元推理文庫に入つてゐるのか。いや、確かに同文庫には「怪奇と冒険」なる一ジャンルがあつて、その一冊として出版されてゐることは承知してゐるのですが、お陰で日本の読者には、本来の『彼方』が持つ味はひが伝つてゐないやうに思はれます。例へば白水社のUブックス辺りから出てゐるべき作品かと存じます。

まあそれは良い。ユイスマンスはその生涯に於いて、何度か文学的な転向(?)を重ねてゐます。
まづはゾラの影響下にある自然主義文学者として、次いでペシミズム漂ふデカダン派、そして悪魔的思想を背景に神秘主義に染まり(『彼方』は、この時代を象徴する作品)、最後はクリスト教に改宗してしまふ、といふ変遷を経てゐます。

主人公の作家デュルタルは、中世フランスの悪魔主義者・ジルドレー元帥の評伝をを物するために、現代でも生きている悪魔崇拝の数数を探求します。
ジルドレーとは、いかなる人物か。かつてはかのジャンヌダルクに協力して、オルレアンの戦ひにて戦果を挙げた功績などがあるものの、その後は錬金術や悪魔術に耽溺、果ては少年たちを拉致してはこれを凌辱・惨殺するといふ暴挙に出た人。被害者となつた少年の数は、800人ともいはれます。

さういふとんでもない奴の一代記を書くために、友人デゼルミーや鐘撞のカレー夫妻などと交流したり、シャントルーヴ夫人との不倫関係を利用して、現在に残る黒ミサを見学したりします。エコエコアザラク。それは黒井ミサか。
『さかしま』の主人公と違ひ、デュルタルはさういふ世界に首を突つ込んでも深入りはしません。あくまでもジルドレー伝記執筆のためと割り切つてゐるフシがあります。そのせいか、扱ふ主題の割には重苦しさや嫌悪感を感じず、悦楽と共に読み終へました。まあ個人的差異はあるでせうが。少なくともこの著者の作品中では、とつつきやすい一作と申せませう。

デハデハ、御機嫌よう。



スポンサーサイト
プレイボール2
51vuaFya_rL__SX318_BO1,204,203,200_

プレイボール2 1 第三の投手の巻

コージィ城倉【著】
ちばあきお【企画・原案】
集英社(ジャンプコミックス)刊
2017(平成29)年8月発行


わたくしの漫画体験は、「ちばあきお」から始まつてをります。ゆゑにその代表作たる「キャプテン」「プレイボール」には、相当の愛着があるのです。
したがつて、コージィ城倉さんが、「プレイボール」の続きを描くといふニュウスを聞いた時には、実に複雑な思ひでした。「もう誰にも触つてほしくないな」といふ気持ちと、「谷口くんのその後がどうなつたか喃」と知りたがる自分がゐました。

しかし「谷口くんのその後」が描かれるのは、実は最初ではありません。以前発表された『ちばあきおのすべて』といふ本の中に、原作七三太朗(ちばさんの弟)・作画高橋広(ちばさんの弟子)による一篇があります。その際、七三太朗氏は、これはあくまでも自分が考へた「谷口のその後」である、ちばあきおがどう考へてゐたのかは今となつては分からないので、正解はないといふ意味のことを述べてゐました。

なある、漫画家の数だけ「谷口くんのその後」があつても不思議はないな、と思ひ直したら、俄然読みたくなつたのであります。
コージィ城倉さんは、執筆するにあたり、「何も足さない、何も引かない」と述べ、ちばあきお世界の継承を宣言しました。
とはいふものの、コージィ城倉さんは独特の世界観を持つひとかどの漫画家でありますから、ちば作品そのままの内容になるとは思へません。これはまがふ方無く、コージィ城倉さんの「著作」であります。

谷口のキャラが変つたとか、井口が大人しいとか、丸井が矢鱈好い奴だとか、イガラシが案外簡単にへばるとか、倉橋が谷口に突つかかるとか、シゴキが異常だとか、金属バットを使はないとか、全体の雰囲気が少々重いとか色色ありますが、やはり続きを読める悦びを味はひたい。
あへて感想を述べると―

井口やイガラシが、「硬球の壁」にぶち当つてゐます。しかし谷口が初めて硬球を扱つた時は、まるでそんな壁は感じませんでした。精精、フリーバッティングで芯を外したときに、手が痺れたくらゐのものです。それを考へると、実力者の井口・イガラシがここまで苦戦するのは不自然だな。
谷口が猛特訓でナインをしごくのは以前からありましたが、そこへ至るまでに、谷口くんは相当悩みます。そしてそれは明確な目的が周知されてゐるので、読者も安心でした。しかしここでの谷口くんは、ちよつと読者を置いてけ堀にしがちですな。

しかし、第2巻を待つわたくしがここにゐます。今後の展開がどうなるか、やはり愉しみであると申せませう。



サンダカン八番娼館
51idJu3nMIL__SX356_BO1,204,203,200_

サンダカン八番娼館

山崎朋子【著】
文藝春秋(文春文庫)刊
2008(平成20)年1月発行


昔兵庫県三田(さんだ)市に、「サンダカン」といふパチンコ屋があつたと思ふのですが、記憶違ひかも知れない。何だか不謹慎だなと思つた記憶があります。
なぜさう思つたのか。サンダカンはマレーシアの一都市なのですが、どうしてもそのイメエヂが強すぎる「からゆきさん」とセットで語られる事が多いからでせう。「アウシュビッツ」とか「チェルノブイリ」とか、負のイメエヂが定着してしまつた都市は不幸であります。

山崎朋子さんは、女性史研究家として、エリート女性ではなく底辺女性の視点から「からゆきさん」の実態を探らんとします。「からゆきさん」の出身地は多くが九州の島原や天草だと言ひます。そこで山崎さんは天草を訪れ、出来れば元からゆきさんを密着取材したいと考へました。
しかし天草に到着して、すぐに壁にぶつかります。何しろ「からゆきさん」は、地元にとつては名誉なことではなく、隠蔽したい黒歴史なのであります。山崎さんが「からゆきさん」といふ言葉を発しただけで島民は警戒感を持ち、口を噤むのでした。

途方に暮れる山崎さんでしたが、偶々食事をしに入つた店で「おサキさん」なる老婆と出会ひ、話をする内に「彼女は元からゆきさんに相違ない」といふ確信を得ます。目的を隠したまま、おサキさんの家を訪問することに成功しますが、その家は凄まじい状態でした。
「荒壁はところどころ崩れ落ち、襖と障子はあらかた骨ばかりになっている」「座敷の畳はほぼ完全に腐りきっているとみえ、すすめられるままにわたしが上がると、たんぼの土を踏んだときのように足が沈み、はだしの足裏にはじっとりとした湿り気が残るばかりか、観念して座ったわたしの膝へ、しばらくすると何匹もの百足が這い上がって来るので、気味悪さのあまり瞳を凝らしてよく見ると、何とその畳が、百足どもの恰好の巣になっていたのである」

しかし山崎さんは取材の為に、おサキさんの家に住み込むのであります。おサキさんは目的を告げられぬのに、不審の念を表に出さず、山崎さんを全面的に受け入れるのでした。そして次第に、ぽつりぽつりと体験を語り始めます......
おサキさんの家での居候生活は三週間に及び、その間におフミさんやおシモさん、女衒の太郎造どん、女傑の木下クニに関する聞き取りにも成功します。著者としては完全に満足のいく結果ではなかつたかも知れませんが。

そして東京へ帰る前日、山崎さんはおサキさんに別れを告げるのですが......この時のおサキさんの態度が素晴らしい! 極貧の家に生れ、僅か九歳で外国へ売られていつたおサキさんはまともな教育を受けてゐる訳もなく、完全な文盲なのですが、どんな偉人にも負けぬ程の「人格者」でした。ここではちよつと泣いてしまつたよ。

本書には、表題作『サンダカン八番娼館』の続篇といふか姉妹篇の『サンダカンの墓』も収録されてゐます。熊井啓監督による映画「サンダカン八番娼館 望郷」では、上記二冊を原作としてゐますので、まことに親切な編集と申せませう。田中絹代さんも高橋洋子さんも栗原小巻さんも皆良かつた。

最後に「東南アジアと日本」と題する一文があります。御維新以来、富国強兵を目指した日本が、東南アジアに於いてしてきた、いはば暗黒の歴史について触れられてゐます。最近の風潮では、拒否反応を示す人が多いだらうなあと考へます。日本が外国でしてきたとされるさまざまな事は、全て捏造であるなどと、相当に社会的立場の高い人たちまでが述べたりしてゐますからな。異を唱へる人は「反日」と呼ばれ排斥される。本書もきつと現代の焚書坑儒の対象になりさうで、いささか不安な日々なのです。
あ、また余計な事を書いてしまつた。

ぢやあまた、今夜はこれにてご無礼します。



戦国城砦群
51GCrQKRGzL__SX344_BO1,204,203,200_

戦国城砦群

井上靖【著】
文藝春秋(文春文庫)刊
1980(昭和55)年12月発行


生誕110年を迎へた井上靖。この人は現代小説・歴史小説・時代小説と幅広い分野で活躍しましたが、これは戦国時代を舞台にした「時代小説」。時代背景は歴史上の史実をなぞつてゐますが、主要登場人物は皆、架空の存在であります。武田氏の滅亡から、山崎の合戦、本能寺の変を経て秀吉が天下を取るまでのを描いてゐます。

主要人物としては、まづ、武田勝頼軍の敗残兵である藤堂兵太。髭面の中年のおつさんださうです。武田に殉ずる心算でありましたが、成り行きで明智勢に加担するも、それも敗れ、更には野武士集団のカシラとなるのでした。
次いで同じく武田の残党、坂部隼人。彼は兵太よりも若く、ストイックな剣豪であります。ヒロインの千里に惚れてゐますが、その気持ちを素直に表現できない不器用な男でもあります。
そして大手荒之介。こちらは織田側の武士。やはり剣の腕が立つ。隼人と対照的に、千里を我がものにせんと積極的に行動します。千里も彼を想ひ、また野武士の娘・弥々からも惚れられて、本編一番のモテ男であります。
女性陣は、先述の千里と弥々が華を添へます。弥々はとにかく強い男が好みで、荒之介への叶はぬ想ひはいぢらしい。

明確に誰が主人公とは言へず、上記男三人、女二人の群像劇とでも申しますか。舞台は戦国時代ですが、その恋愛模様は舞台を現代に移しても通用しさうな内容であります。作者らしい人物造形。まあ、意地悪く言へば「どこかで見たやうな人間関係」とも申せませう。
例へば『天平の甍』のやうな硬質な文章とはまるで違ふ、明らかな通俗大衆小説の文体であります。それが悪いのではなく、この時代小説にはこの上なく相応しい。まあ、かかる小説を量産したのが、ノーベル文学賞を逃した原因かも知れませんが。
いづれにせよ、井上靖も一部作品を除いて徐々に忘れ去られやうとしてゐる印象です。今のうちに読んでおきませう。
デハデハ。



壇蜜日記
41SbYA_oedL__SX346_BO1,204,203,200_

壇蜜日記

壇蜜【著】
文藝春秋刊
2014(平成26)年10月発行


わたくしが居住する愛知県豊田市駅前に、来月(2017年11月)本格シネコンがオオプンするのですが、そのこけら落とし上映として、ほぼ全篇豊田市内でのロケを敢行した映画「星めぐりの町」が披露されます(全国公開は2018年1月)。監督は黒土三男氏(豊田市在住)。かつて長渕剛さんの映画や「渋滞」「蝉しぐれ」なんて作品を発表してゐます。
主演は小林稔侍さんですが、その娘役に壇蜜さんがキャスティングされてゐるのです。ああ、好い人だ。
わたくし好みの映画では無ささうですが、壇蜜さんを見に行かうと思つてゐます。

ところで、壇蜜さんの話をすると、男性の反応はおほむねニヤニヤと野卑な笑ひを浮かべ、「君も好きだねえ」みたいな表情を浮かべる人が多い。一方女性はあからさまに眉をひそめ、苦心さんあんなのが好みなの?見損なつたわ、と口にはしませんが、さう言ひたさうな顔を浮かべるのです。何故?

この『壇蜜日記』を読みますと、そんな周囲との偏見と闘つてゐる様子が窺へます。
「とかくこの仕事は道楽のように軽視されやすい」
「魚は、生きていても死んでいても人間の何らかの役には立っている。獣もまたしかり。私はどうだ」
「それ売女じゃないなあ。お金もらってないもの」
「意地悪しなければ意地悪されないという理屈は生憎私の生きてきた世界では通用してはいない」
「そんなに価値のあるタレントじゃないのは分かっています、だけどもう少しだけ褒めたり笑ったり優しくしてもらえないでしょうか......って、となりの人に言えたら」

しかし壇蜜さんは逞しく生きる。熱帯魚を愛で、猫を抱きつつ大相撲中継を見て、コンビニの品揃へを評し、ペンギンでお馴染みの量販店で買物を愉しむ。「壇蜜」を演じなくてもいい瞬間の彼女は、テレビで観るイメエヂとはかなり相違があります。それは、普段偏見を抱いてゐる人が読めば彼女の印象が変るであらう生活ぶりと申せませうか。
その独特の文章と相俟つて、不思議な魅力を醸し出す一冊でございます。

デハデハ。御機嫌よう。