源氏川苦心の快楽書肆
古い本を探しては読みふけつてゐます。よければお付き合ひくださいな。
英語遊び
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英語遊び

柳瀬尚紀【著】
講談社(講談社現代新書)刊
1982(昭和57)年4月発行

わたくしの好きな人たちが次々と去つてしまふのです。しかも志半ばで。
人気翻訳家の柳瀬尚紀氏が亡くなつたのが先月30日。73歳は現代では早過ぎると申せませう。ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』全訳は未完のままとなり、さぞかし本人も心残りではないかと勝手に想像してゐます。

かなり古い本ですが、『英語遊び』を登場させます。これは英語の学習書ではありません。文字通り英語を遊び倒す本であります。
いやあ、遊ぶほどの英語力をボクは持つてゐないから、などと物怖ぢする必要はございません。日本語を駆使して、英語と遊び戯れる一冊です。

「1」でまづ紹介してゐるのは、詩や散文の各行の最初の文字を繋げると何かしらのメッセージになる「アクロスティック」。わたくしも自力で何とか作らうと考へたのですが、暑くて頭が働かず、発表に値する作品が出来ませんでした。代りに、某新聞のプロ野球中継番組の紹介文。

▽水曜日はブラボー!
海道の熱い観衆の目
前での快勝が見たい
谷の出番はあるか?
元・札幌で魅せろ!
るか?中田の一発!
の打線&投手陣を撃
退せよ!打て!佐藤賢
▽チケットも当たる
▽大宮龍男副音声解説

こんなんださうです。対戦ティームが阪神タイガースだつたのですね。

「2」では「アナグラム」が登場。これは有名な言葉遊びですね。ある単語に使はれる文字の順番を変へて別の単語にしてしまふ。本書の例から引くと、例へば「eat」といふ単語だと、「ate」「eta」「tae」「tea」。無論出鱈目に並べてはダメで、きちんと意味のある言葉になつてゐなくてはならないのです。
柳瀬氏は知人女性の名を次々とアナグラムにしてしまひ、これが面白いのです。例)「田渕容理子」⇒「豚より貴重」、「宮崎恵子」⇒「気障・嫌味・苔」、「久保京子」⇒「濃き欲望」、「渡辺由利」⇒「湯女、綿減り」、「伊藤貴和子」⇒「亀頭怖い」、「片山三保子」⇒「ほんま堅い子や」等等......

「3」では、「ダブレット」を紹介。ある単語の一文字づつを変へてゆき、最終的に別の意味の単語にする遊びであります。本書のカヴァー表紙にもありますが、「猫」を「犬」に変へよ、といふ場合は......

CAT
cot
dot
DOG


となります。ただ一文字づつ変へれば良いのではなく、途中の言葉もちやんと存在する単語を駆使しないといけません。
また、著者自身からの出題で、「少年を男にしなさい」では......

BOY
bay
may
MAN


これらは僅か3文字だから簡単ですが、文字数が多くなれば途中に使はれる単語が十以上要する難問もあります。

さて「4」では「発音レッスン」。
吉田健一の言葉をもぢり、英語の発音なんて覚えられないものだから、始めから諦めた方がいい、などと宣ひます。日本人がriceをliceと間違へて発音したとしても、まともなレストランならシラミではなくちやんと米を出してくれるとか、詩人の正津勉氏が猛犬を前に、命懸けで「Stop!」の発音を体得した話を紹介し、「いざとなればできる」と我我を安心させてくれます。

「5」は、「パリンドローム」、お馴染みの回文ですね。アダムとイブの会話を回文(勿論英語で)にしてしまふ力業には、笑つてしまふと同時に、凄味すら感じられます。いやあ、柳瀬氏の面目躍如たるものがあります。わたしまけましたわ。

「6」も身近な「オノマトピア」。西洋語は日本語ほど擬声語・擬態語が発達してゐない印象でしたが、どうもそれは間違ひのやうでした。さすがに『フィネガンズ・ウェイク』を翻訳した人だけあります。

「7」は「洒落」。ところで、次の文章(?)を読めますか。

生生「生」。生生生生生生生生生。生生生生生。生、生、生生。(正解は181頁)

最終章の「8」は、「ジョイス語入門」。架空の『二十世紀文学のアリス』なる書を駆使して、「瞬間接着剤のようなもので言葉と言葉をぴたっとくっつける」といふジョイス語のさはりを解説します。この解説を読んで、よし、俺もいつちよ『フィネガンズ・ウェイク』を読んでみるか!と思ひたち、天存で河出文庫版を取り寄せたはいいが、数頁もいかぬうちに激しく後悔するのであります。しまつた、全巻買ふんぢやなかつた、取り敢へず1巻だけにしときやよかつた......

なほ、この『英語遊び』、河出文庫版も出てゐますが、それもすでに18年前で、入手難のやうです。ここはあへて、講談社現代新書版を挙げておきます。ぢやあね。



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翻訳英文法
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翻訳英文法 訳し方のルール

安西徹雄【著】
バベルプレス刊
1982(昭和57)年4月発行
2008(平成20)年9月新装版発行

所謂英文法の本は、それこそ星の数ほど出てゐますが、翻訳を志す人の為に書かれた文法書は、わたくしの知る限り本書が本邦初であります。
英語が得意な人なら翻訳が出来るかといふと、それは大間違ひ。翻訳は英文解釈の延長線上にはなく、新たな日本語文章を構築する力が必要であります。しかし、具体的にどうすればいいの? といふ疑問に応へたのが、この『翻訳英文法』でございます。

名詞・代名詞・形容詞・副詞・動詞......と品詞別に、豊富な例文と「安西試訳」を駆使して分かりやすく解説します。演習では安西氏が直接関つた「バベル翻訳学院」の受講生の翻訳を添削する方式で展開。受講生が原文を理解しきれず苦し紛れに書いた訳文を読むと、まるで自分の事のやうに思へて恥かしくなります。

また、共通テキストとして、江川泰一郎氏の『英文法解説』(金子書房)を採用し、この本から多くの例文を引用してをります。わたくしも高校時代、この黄色い表紙の「江川の英文法」にはお世話になつたものであります。無味乾燥な凡百の英文法書と一線を画してゐてお気に入りの一冊でしたが、翻訳のプロも認めてゐたと知り、嬉しくなつた次第。

訳し方のテクニークは様様ありますが、原則中の原則が序章の冒頭に述べられてゐます。即ち「原文の思考の流れを乱すな」といふことであります。
周知のやうに、英語の構文はSVOが基本。主語の直後に動詞が配置されてゐますので、文意の重要順に並んでゐると申せませう。しかるに日本語では結論となるべき動詞が最後なので、文意を完全に理解するまでのストレスがあります。ただ単にヨコのものをタテにすれば良いといふものではありますまい(最近はヨコ書きの日本語も一般的ですが)。

また、代名詞は極力訳さない(必要があれば固有名詞を繰り返した方がいい)とか、複雑な構文は一度再構築して訳してみるとか、英語の品詞通りに日本語にする必要が無い(原文が形容詞でも、日本語では形容詞を充てない方が良い場合もある)とか、学校英語しか触れてない人には参考になるであらう考へ方が惜しげもなく開陳されてゐます。
いはばプロの翻訳家の手の内を明かす側面もあり、同業者から苦情が出ないか心配になるほどであります。

そして最終章で、「何よりも大切なこと、三つ」と称して「英語を知ること」「日本語を習うこと」「翻訳という仕事を愛すること」を挙げてゐます。これを読むと、軽い気持ちで(デモシカで)翻訳でもやつてみるかなと思つてゐる人には耳が痛いでせう。
あへてエラソーに言へば、「誠実さ」が欠かせない徳だと個人的には思ひます。今をときめく舛添要一氏も数冊の訳書を世に問ふてゐますが、過去の翻訳をめぐる不誠実な対応がニュースになつてをりました。似たやうな事例は、例へば大学の教授と教へ子の関係でしばしば起きてゐると仄聞してゐます。自分に手の負へない仕事は断る勇気も必要ですね。

オヤ話がそれてしまひました。申し訳ない。ちよつと疲弊してゐるやうですので、休息いたします。デハデハ。



英語演説
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増補 英語演説 その原則と練習

松本亨【著】
英友社刊
1966(昭和41)年3月発行
1974(昭和49)年4月増補

日本人は演説下手で、そのために様々な国際舞台で軽んぜられてきたと、松本亨氏は常々苦虫を噛み潰したやうな顔で(といふのは想像ですが)指摘してきました。
原稿をたどたどしく読むか、開き直つて日本語で演説し通訳に任せるといふのが、国際会議などで見せる「日本代表」の姿でありました。無論これは松本氏が現役の頃の話。現在は堂々とイギリス語、もとい英語で表現力豊かに演説する人が多くなりました。
では本書はもう無用の長物かといふと、さうでもありますまい。いつの時代でも、聴衆の前で説得力のある表現を会得するのは重要なことであります。わたくしは結局身に付きませんでしたがね。

以下に、ちよつと内容をかいつまんで紹介しませう。
「Ⅰ 人の前で話す」では、恐怖心の克服や自己意識を捨てる方法を、自らの体験を基に述べてゐます。また、「演説の三要素」として、「事実を明らかにすること」「聴く者を説得すること」「聴く者をして行動をおこさせるように訴えること」を挙げてゐます。

続く「Ⅱ 聞く人を知れ」では、聴衆が共通認識としてもつてゐる事柄をなるべく多く仕入れ、それを演説に取り入れて聴衆との距離感を詰めませうといふことですな。「1人だけに集中するな、1人でも無視するな」

更に「Ⅲ タイトルのえらび方、つけ方」では、中高生・大学生・社会人の英語弁論大会におけるタイトルを紹介して、読者の参考に供してゐます。

そして「Ⅳ スピーチの内容」では、前章で紹介した弁論大会で入賞した演説をそのまま採録してゐます。松本氏も評する如く、低学年ほど先生の介入度が高いやうで、いささか気取つた物言ひが目立つのが残念。

一転して「Ⅴ スピーチの構造」では、構成を考へる時に参考になる、技術的な面を解説してゐます。

一方で「Ⅵ 発声法」では、具体的に声の出し方、使ひ方を説明します。「ふだんの心がけ」として、酒は控へよ、タバコも駄目よ、辛いものは避けなさい、水をガブガブと飲み過ぎるな(ジウスやコオラ類などの甘いものは発声に障害あり、飲むなら熱い珈琲かお茶ださうな)、夜更かしはするなと、中中厳しい。これでは人生はツマラナイと思ふなら、演説の上達は諦めよと言はんばかりであります。

本書の白眉「Ⅶ 有名な演説」では、練習用に適した過去の著名な演説が収録されてゐます。強調すべきアクセントの位置が分かるやうに記号が付いてゐるのですが、CDを付録に付ければ尚良いですな。ちなみに収録された演説は「山上の垂訓」「マーカス・アントーニアス」「ウィンストン・チャーチル」「J・F・ケネディ」「ジョンソン大統領」、そしてキング牧師「私には夢がある」。
特に最後のものは、本書初版後の演説で、松本氏はこれを是非収録したいが為に、増補版を出したやうです。確かに、実に感動的な演説であります。

「Ⅷ スピーチこばれ話」では、松本氏自身の体験談、失敗談が紹介されてゐて、肩の力を抜いて読めるセクションと申せませう。
最後は、「Ⅸ 発音上達のためのPronunciation」。日本人が不得手な発音を含むフレイズを、別の言ひ方で表現するリスト。或は代替表現が無い場合、頑張つて覚える一覧表。痒い所に手が届く表といふわけです。

実戦にも使へ、読物としても読める、古典的名著と存じます。



はじめての中国語
はじめての中国語 (講談社現代新書)はじめての中国語 (講談社現代新書)
(1990/02/16)
相原 茂

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はじめての中国語

相原茂【著】
講談社(講談社現代新書)刊
1990(平成2)年2月発行


4月は語学学習を始める季節であります。特にさう決つてゐる訳ではないけれど、希望を持つて学習を開始し、5月か7月あたりで挫折するまでの間は、ネイティヴ並に流麗に話す自分を夢見てゐられるのであります。

周知のやうにNHKでも、レイッディオウとTVで各種外国語の講座があります。中高生の頃は色々視聴してゐましたが、TVの方ではその後「生徒役」なる役柄が登場しまして、これで見る気が無くなりました。当方は少しでもネイティヴの模範発音を聞きたいのに、わざわざ素人を出すとはどういふ気かね、と思つたのです。
さらに時代が下つて、生徒役は一般人から芸能人に代りました。かうなると全く別の番組のやうで、完全にわたくしの興味は失せてしまつたのであります。

ところが今年の「テレビで中国語」は、生徒役が壇蜜さんだといふではありませんか。これは見るしかあるまいと、テキストまで購買してしまひました。即ちわたくしが侮蔑してゐた策略に、自らが嵌つてしまつたといふ訳ですな。で、実際に番組を視聴しますと、案外良くできてゐるなと。中でも、小学生から70代までの北京市民から、学習した表現を実際にはどのやうに駆使するのかをインタビュー(?)したコオナアはユニックでした。ま、NHKらしく恥かしい演出もちらほらありますがね。

オット、紹介したいのはNHKではなく、相原茂著『はじめての中国語』でした。全8章から成りますが、その構成は中中に個性的です。

序章「学びやすい中国語」、第1章「私たちが学ぶ中国語」でまづ概観し、中国語とはいかなる言語かを述べます。文字改革の歴史にもちよつと触れてゐます。
第2章「中国語の発音」では、日本人が苦手な四声、そり舌音、有気音と無気音の相違などを手際よく教へてくれます。かつて取り上げた同じ著者による『中国語の学び方』でも述べられてゐた、「中国語発音良ければ半ば良し」といふ標語(?)をここでも開陳してゐます。

第3章から第5章までは飛ばしても良い内容で、第6章・第7章がいよいよ「中国語の基本」であります。中国語は「語順」が大切として、「SVO」の構文を徹底的に料理し、読者に提供するのであります。
第8章が「ひとこと中国語」。街で話せる、そのまま覚える中国語の数数。この章を読むと、何だか中国語会話は訳なく出来さうな気がするから面白いですな。

さて「第3章から第5章までは飛ばしても良い内容」と先ほど述べましたが、では無くても良い無駄なパートなのか、トマソンなのかと問ふ人がゐるかも知れません。
さうではありません。わたくしが思ふに、この3章こそが本書の眼目、類書との差をつけた部分ではないかと。

第3章「日本語と中国語」で、この二つの言語が歴史上で、いかに影響しあつてきたかを、過去の日本人が学んできた「漢文」と比較することで説明してゐます。一方的に中国⇒日本ではなく、日本⇒中国への影響もあつたのですねえ。
第4章「中国語の語彙」。日本語と中国語で、同じ漢字を使つてゐてもその語のもつ「広がり」は、両国ではまるで違ふのであります。日本語で「切る」といふ単語を中国語に変換する時、例へば「野菜」「樹」「ツメ」「木材」「盲腸」「ガラス」を「切る」際に、すべて使ふ動詞(漢字)が違ふと紹介します。日本語では、ものを二つ以上に分かつ状態を「切る」なんて表現するが、中国語ではその動作に注目するため、それぞれ別の動詞を駆使するのださうです。こんな話は、あまり初心者向けの本には書いてありません。
第5章「私の中国語修行」を読みますと、語学習得には近道無しと、つくづく思ふのであります。ここでも著者は、やはり上達にはカネをかけないと本気になれないと書いてゐます。ふうむ。

といふふうに、第3章-第5章は無くても成り立つのですが、それでは本書の存在意義は薄いといふもの。この3章があるからこそ濃ゆい、ユウスフルな内容になつたのです。初級学習者にとつて出色の一冊と申せませう。

日本語はどう変わるか
日本語はどう変わるか――語彙と文字 (岩波新書)日本語はどう変わるか――語彙と文字 (岩波新書)
(1981/01/20)
樺島 忠夫

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日本語はどう変わるか―語彙と文字

樺島忠夫【著】
岩波書店(岩波新書)刊
1981(昭和56)年1月発行


古い本ですがね、これがまことに面白いのであります。1981年1月といへば、当時の関脇千代の富士が第一人者の横綱北の湖を破つて初優勝、その年のうちに大関・横綱と一気に駆け上がり、「ウルフフィーバー」などと呼ばれて社会現象になつてゐた頃。本書には何の関係もないが、それだけ昔の本であることを言ひたかつただけです。

タイトル通り、将来の日本語がどうなるかを、サブタイトルにあるやうに「語彙と文字」の面から考察した一冊であります。
冒頭に「日本語の乱れ」の議論があります。これはたぶん、古くて新しい問題で、おそらく「近頃の若い者は」と同じくらゐ昔から嘆かれてゐたのではないでせうか。
何をもつて「乱れ」とするかは個人差がありますが、外来語が跋扈してゐるといふ点では多くの人が首肯するところではないかと。

著者の研究成果によりますと、基本的な和語は千年経つても大きな変化はない。少数の和語が日本語を支へてゐるといふ点では、日本語は外来語に占領されてゐるとは言へないさうです。
しかし外来語は欧米発のカタカナ語だけではありません。現在違和感なく使用してゐる漢語も、中国からの外来語と申せませう。これらを勘案しますと、やはり和語のみで文章を作るのは難しい。むりやり和語のみで作成すると、実に間延びした、ちやうど井上ひさしさんが言葉遊びをするやうな文章になり、笑ひを誘ふには格好のものですが、例へばビジネス文書には不向きな文章になるやうです。

現在(本書執筆当時のことですが、平成27年現在でも大きな相違はないやうです)日本語を表現する文字として、使用頻度順に列挙すれば「平仮名・漢字・片仮名・(ローマ字)交じり」となりますが、今後は漢語が外来語化したり、かな書きされる傾向が強まると著者は見てゐます。
そこで変化の第一段階「平仮名・片仮名・漢字・(ローマ字)交じり」、第二段階「平仮名・片仮名・ローマ字・漢字交じり」、第三段階「平仮名・ローマ字・片仮名・漢字交じり」、そして第四段階ではつひに片仮名がローマ字に食はれ、「平仮名・ローマ字・漢字交じり」と予想できない訳でもないと述べてゐます。

ただ現在の我我は、当時は普及してゐなかつた日本語ワードプロセッサーを当り前のやうに駆使してゐます。これは樺島教授も言及してをりませんが、これによつて漢字の簡略化や廃止論、ローマ字国語化論などは急速に力を失つてゆくのでした。したがつて今後、ローマ字が日本語を侵食するといふのは想像しにくいですね。

なるべく私見を挟まずに語彙と文字の変化を論ずる樺島教授。しかし文中で本多勝一氏の主張を紹介したり、中桐雅夫氏の詩を引用したりと、何となく著者の立ち位置がわかるのであります。知的興奮に溢れた一冊と申せませう。