源氏川苦心の快楽書肆
古い本を探しては読みふけつてゐます。よければお付き合ひくださいな。
「婚活」症候群
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「婚活」症候群

山田昌弘/白河桃子【著】
ディスカヴァー・トゥエンティワン(ディスカヴァー携書)刊
2013(平成25)年7月発行

「婚活」時代』の続篇に当るものであります。なぜ続篇が必要になつたのでせうか。
著者たちによると、前作では「婚活」なる流行語を生み出し、その必要性も広く一般に認識されたのですが、かなり誤解も招いてしまつたといふことです。
即ち、伝へたかつた事は、①もう待つてゐても結婚できない時代である。②従来の、夫に経済的に依存する結婚の形(本書では「昭和結婚」と呼称してゐます)はもはや望んでも難しい。

ところが、これが誤解・曲解されて伝つたと。多くの未婚女性が望む、相手男性の年収は600万円以上。しかし、特にリーマンショック後は、そんなに稼いでゐる適齢期の独身男性はわづか5.7%(2010年、国立社会保障・人口問題研究所 出生力動向基本調査)なのださうです。すると、独身女性たちはその5.7%に群がり、何とか自分が選ばれるやうに躍起となつてしまつた。要するに未だに昭和結婚の夢を捨てられぬといふ訳です。その結果、なかなかパートナーが見つからず、いたづらに時間のみ経過し「婚活疲れ」を招き、さういふ現象を憂える人々からは的外れな「婚活」批判が起こる。

著者の山田氏・白河氏は、そんな本書の反響は本意ではないとして、改めて「昭和結婚」からの脱却を訴へてゐます。
例へば白河氏は、「働く女性はたつた三つの法則で結婚できる」とし、その三つとは......①自活女子になる②時間の限界のあるものを軸に③条件は広く、場所は狭く。ださうです。
①については、男性の収入のみに頼る生活から、夫婦での「世帯収入」を考へよ(無論男性はその分家事を分担すべし)と助言し、②の意味は、女性の場合「出産」が年齢との兼ね合ひがある為、ここを起点として逆算して婚活を始めよといふこと。
③は文字通り。条件を絞り過ぎると、該当者がゐないし、範囲を広げ過ぎると際限なく広がり、「どこかに理想の人はゐる筈」と、泥沼に嵌る。白河氏は、婚活疲れの女性は「この世にゐない男性」を探してゐるからだ、と指摘してゐます。

念の為に申し上げますが、本書の目的は「みんな結婚しろ」でも、少子化対策のために「産めよ増やせよ」でもありません。「結婚しない自由」は誰にでもございます。結婚したいのに相手が見つからない人に対して、考へ方の転換を促し、背中を押す一冊と申せませう。
「婚活」嫌ひの方はスルーしてくださいませ。ぢやあまた。



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教養としての世界史
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教養としての世界史

西村貞二【著】
講談社(講談社現代新書)刊
1966(昭和41)年6月発行

コムパクトに世界史を概観しませうといふ書物は数多くあります。学生時代にあまり熱心に勉強しなかつた人(わたくしのことです)が読むのでせうか。ここでは、故・西村貞二氏の『教養としての世界史』を登場させます。この方、オスカー・ワイルドの個人全訳を成し遂げた西村孝次氏のお兄さんなのですね。無学なわたくしは知りませんでした。

さて、このタイトルですが、ちよつと厭らしいですね。「教養としての」なんて。中には「いや、俺は『もういちど読む山川世界史』で十分だぜ」と主張する向きもゐらつしやるかも知れません。
まあまあ。山川出版社の本も良いけれど、アレは基本的に「教科書」であります。西村氏の著書は、単に、各国の歴史を編年体で述べたものではありません。著者も語るやうに、しよせん新書一冊で世界史を俯瞰するのは無理といふもの。
そこで、西村氏の言葉を借りれば、本書では「世界史の肖像画をえがく」ことを眼目としたらしい。

肖像画は、個人の風貌をたんにリアルにえがくのでなくて、時に思いきったデフォルメをするとき、かえって特色がにじみ出るのではないでしょうか」(「まえがき」より)

なるほど、写真みたいな写実的な肖像画は、記録的な意味はあつても、それ以上でも以下でもない。しかしデフォルメは、その人のもつとも特徴的な要素を強調するので、より印象に残るのであります。
例へばフランス革命。「数巻の書をもってしても委曲をつくせません」(著者)といふことで、時系列の解説を廃し、その代りに「三つの視点」(①革命の性質について②革命の上げ潮と引き潮について③外国との関係について)を挙げることで、その全体像や歴史的意義を浮き彫りにしてゐます。

つまり、お手軽に入門書を一冊読んで、何となく分かつた気分にさせてくれるといふものではなく、本書を読んだ後では、それぞれの事件・出来事についてより深く突込んで知りたくなるのでした。この辺りが「教養としての」などと豪語する原因ですかな。

では今夜はこんなところで、ご無礼します。



名古屋「駅名」の謎
無題

名古屋「駅名」の謎 「中部」から日本史が見えてくる

谷川彰英【著】
祥伝社(祥伝社黄金文庫)刊
2012(平成24)年9月発行

谷川彰英氏は、地名研究で有名な人。「駅名」の謎シリーズでは、既に「大阪」「京都・奈良」「東京」があり、本書は第四弾といふことになります。
本書にも断りがありますが、「名古屋」と言ひつつ、市外の尾張や三河、果ては岐阜県の美濃まで範囲を広げてゐます。これは、「名古屋鉄道(名鉄)」の沿線範囲を考慮した結果のやうです。

わたくしは地元ですので、登場する駅名はすべて存じてゐますが(冒頭の「駅名検定」は当然満点を取りました)、その由来については知らない事も多く、中中興味深いものがあります。最近、他県から来た人に「何でこんな地名になつたの?」と聞かれる事も増えてきてゐまして、本書をカンニングペーパーにしやうといふ魂胆もあります。

例へば―
(かつては「サコ」と発音)と栄生(サコオ)の関連は、ああやつぱりといふ感想。
黒川が人名(黒川治愿氏)に由来してゐたとは知りませんでした。
鶴舞(ツルマ&ツルマイ)問題は、由来からすれば「ツルマ」なんでせうが、名古屋人が発音すれば「ツルマ」も「ツルマイ」も「つるみやあ」になるので、地元では余り拘泥してゐないとか。
・豊川市の「国府(こう)」は最近よその人にも知られる事が多くなりました。豊田市駅で、東北弁の男性二人組の会話をぼんやり聞いてゐると、一人は国府を正しく「こう」と読み、もう一人の男性は「へえ、あれをコウと読むのか」と路線図を見上げながら感心してゐました。国府高校(こうこうこう)もあります。
・わたくしの好きな駅名「前後」は、元元「東海道に向ひ前の郷=前郷」から前後に転じたさうです。豊明市には「阿野」「前後」の二駅がありましたが、豊明の中心駅として期待を込め「阿野」を「豊明」に改称しました。しかしその後、案に相違して「前後」周辺が開発され、実態としてはこちらが中心駅となりました。予想が外れた形ですが、「前後」が残つて良かつた喃。

あまり専門的に深く踏み込んでゐない分(踏み込まれても素人には困るが)、門外漢にも気軽に読め、ここで仕入れた知識を周囲にひけらかして、刹那的な(つまり外交辞令的な)尊敬を受けることも可能であります。
それにしても地名は面白いですなあ。



大学でいかに学ぶか
無題

大学でいかに学ぶか

増田四郎【著】
講談社(講談社現代新書)刊
1966(昭和41)年5月発行

近年はあまり五月病といふ言葉を聞きませんが、入社や入学自体を目的として活動してきた人々は、何をやれば良いのか分からず彷徨してゐるのではないでせうか。
やはり入つてから何をしたいといふ強い願望が無い人にとつては、入社や入学がゴールとなり、その後の目的を失ふことは容易に想像が付きます。

『大学でいかに学ぶか』は、新たに大学生となつた人向けに、もう50年近くも前に書かれた書物でございます。実はわたくしが大学生になつた頃に購買したものです。その時分は、割かし真面目に「大学での学問の仕方を学びたい」と思考してゐたのですよ。まあ中には、「いかに学ぶか」なんて大きなお世話だぜと呟く人もゐるでせう。それもごもつともだと思ひますので、さういふ人はご随意に。

書名からして、もう少し説教染みた、末香臭い内容かと思ひましたが、これが中中刺激的で、古びた様子が全くない指摘の連続なのですよ。著者は高名な歴史学者なのに、語り口は穏やかで、まるで中学生に対して講演でもしてゐるやうです。約50年前に書かれたといふ予備知識なしに読めば、まるで現在の事を述べてゐると錯覚しさうなほど、先進的なのですね。教育者として学生を見る目は中中に厳しい。逆に言へば、現代の学生も進化してゐないといふ証左でせうか。

明治以降の日本の学界は、十八世紀・十九世紀の欧州を手本にしてきました。確かに当時は西欧といふのが世界の超先進国で、西欧が世界を引つ張つてゐるとの前提で、何となく世界の約束事が作られていきました。しかしながら二十世紀は新興国の時代であります。古い物差しで測れば無理の出る時代。無理とは摩擦だつたり戦争だつたりします。
日本ではさすがに欧米崇拝の風潮は衰へたとはいへ、まだ我我の生活はその延長線上にあるのではないでせうか。
そんな我我が、古い学説を覆し新たな発見をするのは真に難しいことであります。しかし著者は言ふ。

大きなダムも、蟻の穴でくずれるとさえいいます。あの大きなマルクス主義の体系もくずれるかもしれません。(中略)ヨーロッパの偉い学者が考えたことは不動の真理だと考える義理もまったくないのです。(中略)自分はここまでしかわからないが、そこまでについては、動かない証拠をあげ、論証ができるというものを見つけていく。それは蟻の穴ほどの小さなことかもしれません。しかし、そういうことをいくつもくり返してやっているうちに、いつかはダムもくずれるかもしれない、そのあとはだれかが築いてくれるであろう。―そうした、自分を捨て石にする気持ちにならないと、学問というものは客観化してきません」(7「現代学問のすすめ」より)

捨て石ですよ、捨て石。刹那的な功名心、名声を得たいと思ふ心は誰しも有るでせうが、そこをあへて捨て石になれと......何と厳しい世界なのでせうか。
ま、わたくしは歳を取り過ぎてゐますので、若い諸君の中から、覚悟を持つた人が出現することを望むものであります。
いやあ、我ながら無責任な発言ですなあ。

思索の源泉としての鉄道
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思索の源泉としての鉄道

原武史【著】
講談社(講談社現代新書)刊
2014(平成26)年10月発行


講談社のPR誌「本」に長期連載中のコラム「鉄道ひとつばなし」をまとめたものであります。すでに既刊で三冊出てゐますので、本来なら『鉄道ひとつばなし4』となるべきところですが、今回はタイトルが『思索の源泉としての鉄道』となつてゐます。いささか仰仰しい表題ですね。故・森有正氏のエッセイ「思索の源泉としての音楽」から拝借したのださうです。ふうむ。森有正ねえ......ま、いいでせう。

連載当時が、東日本大震災直後にあたる本書。被災地を巡る発言が多くなつてゐます。『震災と鉄道』と被るところもありますが、それだけ深刻かつ重要な問題として、読者は捉へるべきでせう。

第1章の表題がまさに「東日本大震災と鉄道」で、第4章、第7章でも関連する文章が載つてゐます。特に三陸鉄道の奮闘を讃へ、対照的にJR東には批判的な姿勢が目立つのであります。
震災のわづか五日後に、復旧できる区間から運転再開したのみならず、復興列車として運賃無料で走らせた三陸鉄道。一方で、東北新幹線は逸早く復旧させたものの、肝心の被災地を走るローカル線に関しては放置し続けてゐるJR東。赤字路線にはカネを出したくないといふ本音が見え見えですね。

リニア建設を進めるJR海に対しても、どこか懐疑的な筆致の著者であります。トンネルばかりで車窓が見えないとか、その建設費で日韓トンネルが出来るぞとか。
しかしながら、私見ですが日韓直通特急が走つたとしても、時間がかかりすぎるので結局空路に勝てない。やはり三時間台で到達できるところを走らせるべきでせう。

また、「移動そのものを楽しむ列車」も結構ですが、その路線が本来の使命を果たした上で走らせていただきたいですな。ローカル線は、イベント列車ばかりではなく、まづ地元の人が使ひやすいダイヤで運行を望みます。某ローカル私鉄の社長は、無理に地元の人に乗つて貰はなくてもいいと発言し、あの手この手のアイデアで企画列車を走らせてゐます。順番が逆だと思ふのです。
原氏は、例へばJR九の「ななつ星in九州」のやうな列車を評価してゐるやうですが、あれはまあ普通の庶民にとつてはどうでもいい列車であります。そもそもいつまでも水戸岡氏に頼るのはいかがなものかねと思ふのですが、それはまあいいとして、想定した乗客は日中韓の富裕層といふことで、始めからわたくしのやうな貧乏人は相手にされてゐないのだね、と不貞腐れてしまふのです。

最終章の「よみがえる「つばめ」「はと」」は、架空の乗車記。愉快な読み物ですが、東京-大阪間を従前のやうに7時間30分かけて運転するのならば、編成が地味過ぎはしないでせうか。即ち。
その一。「トワイライトエクスプレス」のやうな寝台列車ならともかく、普通座席車に長時間座り続けるのは辛い。最低でもグリーン車クラスが必要。
その二。従つて自由席は不要。豪華列車に自由席はそぐはない。グランクラス級座席車を中心に、一部普通グリーン車。
その三。フリースペースが無いので、ロビーカーを連結する。乗客同士で話が弾めば、長時間乗車も楽しからう。
その四。EF58に牽かせるのなら、10両編成くらゐにしませう。

えー何だか色色といちやもんを付けたみたいですが、本意はさうではありません。「鉄道ひとつばなし」の長年のファンであるがゆゑの甘えと申せませう。特に第2章「天皇・皇后と鉄道」のやうな文章はもつと読みたいものです。このテエマだけで一冊書いていただきたい程であります。講談社には、今後も「本」での連載を続けて貰うふことを願ひ、この辺でご無礼いたします。では。