源氏川苦心の快楽書肆
古い本を探しては読みふけつてゐます。よければお付き合ひくださいな。
戦後史の空間
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戦後史の空間

磯田光一【著】
新潮社(新潮文庫)刊
2000(平成12)年8月発行

磯田光一氏が世を去つたのが1987(昭和62)年、もう三十年にもなるのでした。まだ56歳の若さだつたのです。
歴史に残る事件や出来事がこれから続発するといふ時期に亡くなつたといふことになります。磯田氏がベルリンの壁崩壊やソ連の消滅を目の当たりにしてゐたら、如何なる視点から読み解くのか、まことに興味深いものがありますが、まあそれも詮無いこと。

新潮文庫の説明文によると、『戦後史の空間』は『鹿鳴館の系譜』『左翼がサヨクになるとき』と併せて三部作を為してゐるさうです。まあそれはいい。とにかく敗戦後の日本を、文学作品を通じて論じます。
敗戦における「無条件降伏」の意味とは何か。ポツダム宣言の条件による降伏とは、本来「有条件降伏」となるべきであると。ポツダム宣言を「無条件に」受け入れる事が、即ち「無条件降伏」ではないのだと指摘します。

また「占領の二重構造」では、戦後のGHQによる占領のみならず、戦前戦中の陸海軍による「軍事占領」に注目します。軍部の圧迫から逃れられた解放感と同時に、新たに米軍による日本の支配の不安。つい先日まで「鬼畜米英」などと喧伝してゐた相手に、媚びへつらふ風潮を苦々しく感じてゐた人も多かつたと言はれてゐます。太宰治もさういふ、偉い人たちが戦後に豹変してしまつたことに失望を隠しませんでした。

さらに戦後を示す数々のキーワード(「新憲法制定」「安保改定」「洋行」「転向」「高度成長」......)を、磯田流に読み解きます。戦後日本は世界にも例のない高度成長で右肩上がりの発展を続けてきたと言はれますが、その変容の仕方や、失つたものなどを情け容赦なく眼前に提示するのでした。

そして最終章の「もうひとつの“日本”」。人々は「戦後」といふ時代を前提にして語り過ぎると指摘。それを崩す作業仮説として、三つの想定を試みますが......中中衝撃的な内容ですな。米国ではなくソ連に占領されてゐたら......日本が米国の51番目の州に編入されれてゐたら......「戦後」そのものの枠組を破砕したら......
荒唐無稽な空想としてではなく、どうやら米国に依存し保護されながら同時に反発を繰り返してきた「戦後」の本質を炙り出す作業だつたやうです。

なほ、引用された数々の文学作品ですが、わたくしは結構読んでゐたつもりなのに、そんな小難しい事は考へにも至らなかつたのであります。情けない喃。



先日、映画監督の坂野義光氏が亡くなりました。86歳。商業映画はあまりたくさん撮つてゐないのですが、何と言つても「ゴジラ対ヘドラ」で、ゴジラを飛ばせてしまつた奴として有名であります。放射能を吐きながら、後ろ向きにタツノオトシゴみたいな恰好で飛んでゆくのでした。あれにはぶつ飛んだ人も多かつたでせう。
そのせいか、その後は声がかからず、ドキュメンタリーの方面で活躍してゐたやうです。近々拙ブログにて著書を取り上げる予定であります。今夜は「ヘドラ」の追悼上映をするかな。
合掌。


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発想法
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発想法 リソースフル人間のすすめ

渡部昇一【著】
講談社(講談社現代新書)刊
1981(昭和56)年11月発行

先達て逝去された渡部昇一氏であります。紹介される時には、枕詞のやうに「保守派の論客」といふ謳ひ文句が付く人で、色色と発言が問題視されたこともございます。わたくしは中高生の頃、本多勝一氏の著書を読み耽つてゐた為、それと対極に立つ渡部氏の言葉には素直に首肯しかねる事が多かつたのです。
それにもかかはらず、何故か渡部教授の文章が目に留まると、無視できぬといつた存在でした。不思議ですねえ。

専門が英語学である渡部氏の代表的な著作は何か、わたくしは存じませんが、一番売れたのは『知的生活の方法』ではないでせうか。わたくしも当時、続篇と併せて拝読したものです。
しかし天邪鬼なわたくしは、ここで『発想法―リソースフル人間のすすめ』を登場させる訳です。1981(昭和56)年、千代の富士の「ウルフフィーヴァー」の年に刊行されてゐます。当時渡部氏は51歳、もつとも脂の乗り切つた時期ではありますまいか。

サブタイトルにある「リソースフル」とは何か。表紙の言葉を引くと―

リソースフル(resourceful)とは、発想の豊かさを表わす言葉である。語源的には「再び立ち上がる」「再び湧き出す」ということだが、転じて、どんな状況においてもアイデアが出てくること、つまりは、「汲めども尽きぬ知恵の泉(ソース)」をもつことである。リソースフルであるためには……、より深く豊かな泉をより多く身につけるには、どうすればよいのだろうか。まずなによりも、発想の源は自分自身の内部にある。みずからの独自で切実な体験を直視し、忘れず、みがきあげることを土台に、貴重な泉としての外国語習得、新鮮な目をもつこと、幅広い耳学問など、思いつきではない、柔軟な発想を生むための心がまえと方法を説く。

なのださうです。

例へば、森鷗外と坪内逍遥の論争を引き合ひに出します。「没理想論争」と称するさうですが、その詳細はしかるべき文献に当つていただくとして、この論争は世間的には鷗外の勝ちとみなされてゐるさうです。その理由を、逍遥は英語一本だつたのに対し、鷗外はそれに加へて、ドイツ語も出来たからだと著者は推測します。当時は外国語の文献にどれだけ当つたかで勝負が決まるやうなところがありました。即ち鷗外の方が井戸(泉)が多く、枯れ難い環境にあつたと。

葛西善蔵や嘉村磯多のやうな人は、寡作に終つた人たちですが、何しろ水を汲むべき井戸が自分一本しかない。小説を書くための取材や調査をする訳でもなく、外国の文献に当らず、机に向かひ自分の事をうんうん唸りながら書くだけであるので、全くリソースフルではないと論じます。
一方、泉の豊かな作家として、松本清張や夏目漱石を挙げてゐます。両者とも、泉が溢れんばかりの書きつぷりであると。さらに谷崎潤一郎と江戸川乱歩(いづれも「大」が頭につく人ですね)を対比させて、いかに井戸の数が多かつたかを示してゐます。

井戸といへども、際限なく水を汲み上げてゐては、いつかは枯れます。そこで第一の井戸が枯れる前に、第二の井戸、それも枯れさうになれば第三の井戸から汲み上げ、さうかうするうちに第一の井戸は再び水量が戻つてくるであらう、と。即ちその井戸の多さがリソースフルであるか否かの目安なのですね。

それにはまづ「異質な目」を養ふ事が肝要だと。先天的な、生れた環境が否応なしに異質な目を作ることもあり、後天的な努力や発想(不幸な体験も、逆説的に言へば「異質な目」を得るチャンスだといふ)で、井戸の数を増やすことも可能でせう。
終章では「天からの発想・地からの発想」と題して、オカルト的な現象からの発想を説いてゐます。本書の中では若干浮いてゐますが、後年渡部氏は精神世界関連の著作も物してゐますので、今から思へば特段訝しがることもございません。

ところどころに「さうかなあ」と首を傾げる記述もありながら、全体として力強いメッセージを受け取つたと感じられます。のんべんだらりと暮す自分がまことに愚劣な存在に(事実さうでせうが)思へてくる、ちよつと尻を叩かれてゐるやうな気分になる一冊と申せませう。合掌。


考える技術・書く技術
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考える技術・書く技術

板坂元【著】
講談社(講談社現代新書)刊
1973(昭和48)年8月発行

板坂元氏(1922-2004)は、米国事情や江戸文学、日本人論から果ては少しエッチな男女の話まで幅広く活躍した人であります。
「論文の書き方」みたいな本かなと思つたら、むしろその前段の発想のヒント・情報収集・ツールの使ひ方などに力点が置かれてゐます。あたかもそれらが充実すれば、自然と文章は紡ぎ出されるのさ、とでも言つてゐるやうです。板坂版『知的生産の技術』ですな。

「Ⅰ 頭のウォームアップ」:脳を刺戟することの重要性が語られます。記憶訓練はわたくしも良くやります。全国の駅名を記憶する、全国の市町村を記憶する、戦後の幕内力士をフルネームで覚える、など源氏川苦心らしいものでやつてゐます。それにしても「KJ法=マージャン」とは......
「Ⅱ 視点」:本当に「いつも」「みんな」ほど好い加減な言葉はありませんね。子供が親に物をネダる時「みんな持つてるんだよ」と訴へますが、教室に40人ゐても友人が1-2人持つてゐれば「みんな」になつちやふのです。
「Ⅲ 読書」:自分の専門分野とは無関係の雑誌を買ひまくり、それらの全頁に目を通す。結構な物入りですね。現在ならネットで代用出来る?
「Ⅳ 整理」:カードを色分けしたり、文房具にこだはつたり、整理の作業を愉しくする工夫は参考になります。もつとも今ならPCで処理してしまふ部分が多いでせうが。
「Ⅴ 発想」:さあ、情報は集めた、次の一手だ。これらを発酵させ、独自の発想へ繋げられるか。「身体を動かす」「自然発酵をうながす」「おのれを信じる」など、少し情緒に流れてゐますかな。
「Ⅵ 説得」:説得には三つの要素があると著者は述べます。板坂氏独自の表現を借りると、「だきこめ」「なめられるな」「のせろ」といふことになります。信用を得る為の「権威づけ」は中中難しいですね。下手をすればスノビスムに陥りさうです。
「Ⅶ 仕上げ」:論述の形式として「逆ピラミッド型」「ピラミッド型」が存在すると喝破します。前者は主要な主張部分を先に述べ、その説明が後に続く型、後者はその逆ださうです。演繹型と帰納型といふ分け方も出来ると。
「Ⅷ まとめ」:締めくくりは精神論ですかな。誠実であること、情熱と忍耐など、道徳臭が漂ひますが、著者の苦い経験からの結論のやうです。

頭でつかちの論ではなく、著者自身の長年の活動から得たノウハウが詰まつてをります。読物としても愉快。40年を超すロングセラアも納得であります。
ではまた。機会が有ればお会ひしませう。



人生論ノート
無題

人生論ノート

三木清【著】
新潮社(新潮文庫)刊
1954(昭和29)年9月発行
1967(昭和42)年7月改版
1978(昭和53)年9月改版
1989(平成元)年6月改版
2011(平成23)年10月改版

1945(昭和20)年9月、敗戦からわづか一か月後、三木清は獄中にて病死しました、即ち今年は没後70年に当る年であります。驚くべきことに、現在でも新しい読者が生れてゐるさうです。なるほど、新潮文庫の改版歴を見ても頷けるところですな。

人生論ノート』は学生の頃、「新潮文庫の100冊」に選ばれてゐたので読んだ覚えがあります。当時の正直な感想としては、まづその不貞腐れた(と、その時は思つた)文章に「うは」と思ひました。ドイツ語直訳調と呼ばれる文体にも拒否反応を示し、その後手に取ることはありませんでした。

しかるに何ぞや、年齢を重ねた今再度読んでみますと、実に味はひのある一冊でございます。あの嫌味でひねくれてゐると感じた文章も、実は茶目ッ気たつぷりではありませんか。わたくしは、一種のアフォリズム集として受け止めました。
試しに、任意に本書を開いてみ給へ。さまざまな警句・箴言が散りばめられてゐるのであります。即ち。

幸福はつねに外に現われる。歌わぬ詩人というものは真の詩人ではない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう」(幸福について)
模倣と習慣は或る意味において相反するものであり、或る意味において一つのものである」(習慣について)
虚栄は人間的自然における最も普遍的なかつ最も固有な性質である」(虚栄について)
怒は復讐心として永続することができる。復讐心は憎みの形をとった怒である」(怒について)
孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである」(孤独について)
感傷はたいていの場合マンネリズムに陥っている」(感傷について)

などといつた塩梅であります。
学生時代まだ健在だつた小林秀雄が、「最近は新しい書物を読みたいといふ気持ちがなくなり、気に入った古い本ばかり繰り返し読んでゐる。読書の楽しみとはさういふものではないか」みたいな事を述べてゐました(正確な発言ではなく、要旨であります)。
その時は「新刊書に興味を持てなくなるとは、堕落ぢやないのか、何が知の巨人だよ」と毒づいてゐたのですが、この『人生論ノート』を再読しますと、「ああ、かういふ事を言つてゐたのかなあ」と納得するのでした。


わたくしの大好きな俳優の一人、小泉博さんが亡くなつてしまひました。また一人、東宝特撮映画を代表する役者が消えてしまつた訳です。
端正な二枚目風貌に、元NHKアナウンサーらしい几帳面な台詞回し、少し頭をひねりながら語る姿は学者先生そのもの。東宝映画の「良心」を具現化した俳優と申せませう。
色々な方の訃報に接するたびに「ああ、残念だなあ」とその死を惜しむのですが、小泉氏の場合はちよつと別格やね。そこで恒例の追悼上映を敢行するのであります。
そのラインナップは、『三十六人の乗客』『ゴジラの逆襲』『結婚の夜』『サザエさんの婚約旅行』『モスラ』といつたところ。『おえんさん』も観たいのですが、これはわたくしは所持してゐませんので。何とか観たいものです。日本映画専門チャンネルに期待しませう。

ぢや、また。



考える人
考える人 (新潮文庫)考える人 (新潮文庫)
(2009/01/28)
坪内 祐三

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考える人
坪内祐三【著】
新潮社(新潮文庫)刊
2009(平成21)年1月発行


『考える人』。実に大雑把かつ壮大なタイトルであります。
坪内祐三氏がいふ考へる人とはどんな人か。そもそもどんな人でも、深浅の相違こそあれど考へる人でせう。本書では、トップの小林秀雄からトリの福田恆存まで16名選抜して論じてゐます。

この16人の中には、ちよつとわたくしが苦手な(ありていに言へば嫌ひな)人物も混じつてゐますが、さういふ人でも坪内氏の筆にかかれば、なんだか魅力的に思へてきて「いつちよう、今度読み直してみますかな」と思はせるに十分なのであります。
今わたくしは「筆にかかれば」と書いてしまひましたが、坪内氏は実際には恐らく「筆」は駆使してゐないのではないかなあ、とも思ひます。もとより比喩表現としての「筆」ではありますが、きつとこれも福田恆存氏の非難する、良くない紋切り表現の一例なのでせう。

印象的な部分をひとつ上げますと、武田百合子氏にとつての「考へること」が、「見ること」と繋がつてゐるといふくだりであります。『日日雑記』を例にとり、「動物的な反射神経のよさ」を指摘しました。ほほう。一見好き放題に書いてゐるやうですがね。

わたくしが読んだことがある作家の作品も、本書の視点からもう一度読むと、新しい発見がありさうです。



今年も成人式の季節がやつてきました。わが豊田市内も、着飾つた男女の新成人が街を闊歩してをります。
全国各地で、毎年阿房な新成人がいろいろ騒ぎを起してマスコミの好餌となるのであります。幸ひ豊田市ではいまのところさういふ恥づかしい事例は無いやうでなにより。
若者の質的低下を問ふ声は昔からあるけれど、わたくしがこの数年感じるのは、今の若人たちは平均して行儀が良いといふこと。良い意味でね。若いのに分別があるといふか。それに比べたら我我中高年世代や、その上のぢぢい世代の方が余程「世間知らず」で、困つた人が多いと感じます。ま、かういふ人たちの運営してきた我が国ですからね...

おつと余計な事を申しました。ではご無礼します。

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