源氏川苦心の快楽書肆
古い本を探しては読みふけつてゐます。よければお付き合ひくださいな。
考える技術・書く技術
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考える技術・書く技術

板坂元【著】
講談社(講談社現代新書)刊
1973(昭和48)年8月発行

板坂元氏(1922-2004)は、米国事情や江戸文学、日本人論から果ては少しエッチな男女の話まで幅広く活躍した人であります。
「論文の書き方」みたいな本かなと思つたら、むしろその前段の発想のヒント・情報収集・ツールの使ひ方などに力点が置かれてゐます。あたかもそれらが充実すれば、自然と文章は紡ぎ出されるのさ、とでも言つてゐるやうです。板坂版『知的生産の技術』ですな。

「Ⅰ 頭のウォームアップ」:脳を刺戟することの重要性が語られます。記憶訓練はわたくしも良くやります。全国の駅名を記憶する、全国の市町村を記憶する、戦後の幕内力士をフルネームで覚える、など源氏川苦心らしいものでやつてゐます。それにしても「KJ法=マージャン」とは......
「Ⅱ 視点」:本当に「いつも」「みんな」ほど好い加減な言葉はありませんね。子供が親に物をネダる時「みんな持つてるんだよ」と訴へますが、教室に40人ゐても友人が1-2人持つてゐれば「みんな」になつちやふのです。
「Ⅲ 読書」:自分の専門分野とは無関係の雑誌を買ひまくり、それらの全頁に目を通す。結構な物入りですね。現在ならネットで代用出来る?
「Ⅳ 整理」:カードを色分けしたり、文房具にこだはつたり、整理の作業を愉しくする工夫は参考になります。もつとも今ならPCで処理してしまふ部分が多いでせうが。
「Ⅴ 発想」:さあ、情報は集めた、次の一手だ。これらを発酵させ、独自の発想へ繋げられるか。「身体を動かす」「自然発酵をうながす」「おのれを信じる」など、少し情緒に流れてゐますかな。
「Ⅵ 説得」:説得には三つの要素があると著者は述べます。板坂氏独自の表現を借りると、「だきこめ」「なめられるな」「のせろ」といふことになります。信用を得る為の「権威づけ」は中中難しいですね。下手をすればスノビスムに陥りさうです。
「Ⅶ 仕上げ」:論述の形式として「逆ピラミッド型」「ピラミッド型」が存在すると喝破します。前者は主要な主張部分を先に述べ、その説明が後に続く型、後者はその逆ださうです。演繹型と帰納型といふ分け方も出来ると。
「Ⅷ まとめ」:締めくくりは精神論ですかな。誠実であること、情熱と忍耐など、道徳臭が漂ひますが、著者の苦い経験からの結論のやうです。

頭でつかちの論ではなく、著者自身の長年の活動から得たノウハウが詰まつてをります。読物としても愉快。40年を超すロングセラアも納得であります。
ではまた。機会が有ればお会ひしませう。



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人生論ノート
無題

人生論ノート

三木清【著】
新潮社(新潮文庫)刊
1954(昭和29)年9月発行
1967(昭和42)年7月改版
1978(昭和53)年9月改版
1989(平成元)年6月改版
2011(平成23)年10月改版

1945(昭和20)年9月、敗戦からわづか一か月後、三木清は獄中にて病死しました、即ち今年は没後70年に当る年であります。驚くべきことに、現在でも新しい読者が生れてゐるさうです。なるほど、新潮文庫の改版歴を見ても頷けるところですな。

人生論ノート』は学生の頃、「新潮文庫の100冊」に選ばれてゐたので読んだ覚えがあります。当時の正直な感想としては、まづその不貞腐れた(と、その時は思つた)文章に「うは」と思ひました。ドイツ語直訳調と呼ばれる文体にも拒否反応を示し、その後手に取ることはありませんでした。

しかるに何ぞや、年齢を重ねた今再度読んでみますと、実に味はひのある一冊でございます。あの嫌味でひねくれてゐると感じた文章も、実は茶目ッ気たつぷりではありませんか。わたくしは、一種のアフォリズム集として受け止めました。
試しに、任意に本書を開いてみ給へ。さまざまな警句・箴言が散りばめられてゐるのであります。即ち。

幸福はつねに外に現われる。歌わぬ詩人というものは真の詩人ではない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう」(幸福について)
模倣と習慣は或る意味において相反するものであり、或る意味において一つのものである」(習慣について)
虚栄は人間的自然における最も普遍的なかつ最も固有な性質である」(虚栄について)
怒は復讐心として永続することができる。復讐心は憎みの形をとった怒である」(怒について)
孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである」(孤独について)
感傷はたいていの場合マンネリズムに陥っている」(感傷について)

などといつた塩梅であります。
学生時代まだ健在だつた小林秀雄が、「最近は新しい書物を読みたいといふ気持ちがなくなり、気に入った古い本ばかり繰り返し読んでゐる。読書の楽しみとはさういふものではないか」みたいな事を述べてゐました(正確な発言ではなく、要旨であります)。
その時は「新刊書に興味を持てなくなるとは、堕落ぢやないのか、何が知の巨人だよ」と毒づいてゐたのですが、この『人生論ノート』を再読しますと、「ああ、かういふ事を言つてゐたのかなあ」と納得するのでした。


わたくしの大好きな俳優の一人、小泉博さんが亡くなつてしまひました。また一人、東宝特撮映画を代表する役者が消えてしまつた訳です。
端正な二枚目風貌に、元NHKアナウンサーらしい几帳面な台詞回し、少し頭をひねりながら語る姿は学者先生そのもの。東宝映画の「良心」を具現化した俳優と申せませう。
色々な方の訃報に接するたびに「ああ、残念だなあ」とその死を惜しむのですが、小泉氏の場合はちよつと別格やね。そこで恒例の追悼上映を敢行するのであります。
そのラインナップは、『三十六人の乗客』『ゴジラの逆襲』『結婚の夜』『サザエさんの婚約旅行』『モスラ』といつたところ。『おえんさん』も観たいのですが、これはわたくしは所持してゐませんので。何とか観たいものです。日本映画専門チャンネルに期待しませう。

ぢや、また。



考える人
考える人 (新潮文庫)考える人 (新潮文庫)
(2009/01/28)
坪内 祐三

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考える人
坪内祐三【著】
新潮社(新潮文庫)刊
2009(平成21)年1月発行


『考える人』。実に大雑把かつ壮大なタイトルであります。
坪内祐三氏がいふ考へる人とはどんな人か。そもそもどんな人でも、深浅の相違こそあれど考へる人でせう。本書では、トップの小林秀雄からトリの福田恆存まで16名選抜して論じてゐます。

この16人の中には、ちよつとわたくしが苦手な(ありていに言へば嫌ひな)人物も混じつてゐますが、さういふ人でも坪内氏の筆にかかれば、なんだか魅力的に思へてきて「いつちよう、今度読み直してみますかな」と思はせるに十分なのであります。
今わたくしは「筆にかかれば」と書いてしまひましたが、坪内氏は実際には恐らく「筆」は駆使してゐないのではないかなあ、とも思ひます。もとより比喩表現としての「筆」ではありますが、きつとこれも福田恆存氏の非難する、良くない紋切り表現の一例なのでせう。

印象的な部分をひとつ上げますと、武田百合子氏にとつての「考へること」が、「見ること」と繋がつてゐるといふくだりであります。『日日雑記』を例にとり、「動物的な反射神経のよさ」を指摘しました。ほほう。一見好き放題に書いてゐるやうですがね。

わたくしが読んだことがある作家の作品も、本書の視点からもう一度読むと、新しい発見がありさうです。



今年も成人式の季節がやつてきました。わが豊田市内も、着飾つた男女の新成人が街を闊歩してをります。
全国各地で、毎年阿房な新成人がいろいろ騒ぎを起してマスコミの好餌となるのであります。幸ひ豊田市ではいまのところさういふ恥づかしい事例は無いやうでなにより。
若者の質的低下を問ふ声は昔からあるけれど、わたくしがこの数年感じるのは、今の若人たちは平均して行儀が良いといふこと。良い意味でね。若いのに分別があるといふか。それに比べたら我我中高年世代や、その上のぢぢい世代の方が余程「世間知らず」で、困つた人が多いと感じます。ま、かういふ人たちの運営してきた我が国ですからね...

おつと余計な事を申しました。ではご無礼します。

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読書論
読書論 (岩波新書)読書論 (岩波新書)
(1964/11)
小泉 信三

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読書論
小泉信三【著】
岩波書店(岩波新書)刊
1950(昭和25)年10月発行
1964(昭和39)年11月改版


読書論。などと名乗ると堅苦しいのですが、何のことはない、読書の悦びについて、一冊丸ごと語る本であります。今から63年前の初版とは思へないほど、本好きの思考回路は変つてゐないことが分かり、微苦笑を禁じえない、と言つたところでせうか。

第一章「何を読むべきか」、第二章「如何に読むべきか」は余計なお世話ですと片付けることも出来ますが、多読の勧めは理にかなつてゐる。本を選ぶ際の選球眼は、ある程度読書量がないと養へないと勘考するものです。

第三章「語学力について」、第四章「飜訳について」では、読書にも外国語の知識が必要となることを説いてゐます。もつとも、昔の岩波文庫赤帯の翻訳は、酷い誤訳だらけだつたと聞いてゐますが。

第五章「書き入れ及び読書覚え書き」。読んだ本を自らの血肉とするにはどうすれば良いか、のヒントが書かれてゐます。文豪たちの書き入れは(特に夏目漱石)実に愉快ですね。

第六章「読書と観察」、第七章「読書と思索」では、受動的に本を読むだけでふむふむと納得するだけでは、結局他人の思考を自分の頭でなぞるだけであるといふ危険性に言及してゐるのだ。

第八章「文章論」。ある程度読書人としてのレヴェルが上ると、文章論は避けられないさうです。さうなのか? 

第九章「書斎及び蔵書」。昔も今も変らない、読書家の永遠の悩みであるとともに、愉しさであります。理想を語るのはタダですから。

第十章「読書の記憶」は、著者小泉信三氏の読書自叙伝となつてゐます。あくまでも小泉氏の読書遍歴なので、一般人が参考にするやうなものではなく、一種の読み物と申せませう。

先ほども述べたやうに、読書好きの興味は、昔も今も変らないやうです。本書がいまだに流通してゐるのは、そんな事情もあるのではないでせうか。そして一生に読める本の量を類推して絶望し、選択眼が向上する。
ま、たまには外れを引いて、くだらぬ本と付き合ふのも愛嬌かな、とも思ひますがね。

ぢやあ、こんなところでご無礼します。

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広告みたいな話
広告みたいな話 (新潮文庫)広告みたいな話 (新潮文庫)
(1990/10)
天野 祐吉

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広告みたいな話
天野祐吉【著】
新潮社(新潮文庫)刊
1990(平成2)年10月発行


天野祐吉さんの突然の悲報には驚いたのであります。最近までテレビでも拝見し、わが家で購読する新聞紙上でも、CMについての連載を続けてゐたといふのに。
実は、筑紫哲也氏亡き後、判断に迷う問題などの羅針盤として密かに頼りにしてゐた人でした。大衆に分かりやすく、ユウモワも交へつつ、実は深い問題を突つ込んで、なほかつ権力にも迎合しない。カッコイイ人だなと感じてゐただけに、まことに残念であります。

『広告みたいな話』は、文字通り得意の広告の話かと思つたら、広告の話はほとんど出なくて(だから「みたいな」と入つてゐるのか)、五つのキイワードから現代を読み解いてゐる本であります。

まづ「無重力の時代」。新人類ブーム、遊園地ブーム、温泉ブームから無重力感を感じる理由を述べてゐます。新人類なんてのは時代を感じさせます。
続いて「言文一緒の時代」。言文一致ではないさうです。現代の書き言葉に元気がなく、危篤状態であると指摘します。ニュース原稿の「書き言葉」振りは、その後ますます拍車がかかつてゐるのではないでせうか。
「カフェバーの時代」では、天野流カフェバー入門が開陳されます。カタカナ職業の人たちが中心の世界ださうです。カフェバーの客がみな、なぜサメた表情をしてゐるのかを考察してゐます。
続く「ハンフリーの時代」。ハンフリーとは外来語ではなく、半分フリーの人たちを省略した天野さんの造語でした。精神的にはハンフリーの人は、現在相当数に上るでありませう。
最後の「テレビの時代」では、突然マクルーハン論が始まり戸惑ふのですが、これが中中面白い。短いブウムで終つてしまつたが、天野さんはマクルーハンからテレビの見方をいろいろ教はつたさうです。

巻末に多田道太郎氏との対談も収録されてゐて、まことにお得な一冊と申せませう。
かうして見ると、我我は改めて惜しい人を失つたことが分かります。
改めてご冥福を祈るものであります...

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