源氏川苦心の快楽書肆
古い本を探しては読みふけつてゐます。よければお付き合ひくださいな。
本はどう読むか
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本はどう読むか

清水幾太郎【著】
講談社(講談社現代新書)刊
1972(昭和47)年11月発行


本はどう読むか。余計なお世話だと思ひますか。
本の読み方なんて他人から教はることなんかないぜ、俺の好きなやうに読む、そんな方々から反発を喰らひさうですが、心配要りません。本書は読書指南といふよりも、今年で生誕110年を迎へた清水幾太郎氏が「わたくしはこれまでにどのやうに本と付き合つてきたか」を語る愉快な一冊であります。

デハ、以下各章を見てみませう。
〈1〉筆者の読書体験は「立川文庫」から始まるといひます。講談の世界に浸り、次から次へと夢中になつて読破したと。それが、ある時期からつまらなくなつた。パターンが全部読めてしまひ、結局はどれもこれも同じではないかと気づいたからです。これは、かつて夢中になつた身としては寂しい事ですが、これが「成長」といふものなのでせう。

〈2〉書物には、実用書・娯楽書・教養書の三種類があると著者は述べます。無論これは図書館的分類とは違ひ、同じ本でも読者によつて実用書だつたり教養書だつたりします。著者の定義では、実用書=生活が強制する本、娯楽書=生活から連れ出す本、教養書=生活を高める本で、まあ教養書を自ら読む人を、本書の読者として想定してゐるやうです。

〈3〉哀しいことに、人間は忘れる動物であります。折角読んだ本の内容を身に付けるために、情報処理のツールとして著者は「ノート」⇒「ルーズリーフ」⇒「カード」を経て、結局「ノート」に戻るといふ体験をしました。ここは現在なら、PCやタブレット端末を駆使するところでせうか。

〈4〉本とどう付き合ふか。著者は「ケチはいけない」と説きます。読みたい本は買ふべきといふ話の他に、読み始めた本は最後まで読まねばならぬ、と考へるのも「ケチ」の一種なのださうです。あと、書物に有意義なことを求めすぎるケチ、それから名著と呼ばれる書物に対し、一字一句をゆつくり噛み締めながら読まねばならぬと考へるケチに警鐘を鳴らします。

〈5〉読書論を書く人は、かなりの確率で「外国語」の修得の必要性を述べてゐます。ここでも、洋書とどう付き合ふかの要諦を論じてゐます。

〈6〉新しいマスメディア時代の読書とは何か。未来の「焚書坑儒」を描いた『華氏四五一度』を紹介し、その世界は決して夢物語ではないと教養書の行方を危ぶみます。なぜなら、昔も今も、生活を高めるための教養書を求めるのは少数派だからであると。

例へば電子書籍の出現などは想定されてゐれば、電子メディア×活字メディアといふ対立軸にはならなかつたでせう。しかし本書の発表は1972(昭和47)年。無理もないですね。
内容の古さはあるものの、本好きの考へる事は今も変らぬことが分かり、愉しい一冊と申せませう。



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日本近代文学の名作
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日本近代文学の名作

吉本隆明【著】
大井浩一/重里徹也【構成】
新潮社(新潮文庫)刊
2008(平成20)年7月発行


学生の頃、人並みに吉本隆明を幾つか読んでみましたが、さつぱり分かりませんで、これはわたくしの理解力が足りないせいだらうと消沈してをりました。
その後社会人になつて読み返す機会がありましたが、その時は「ああこりや、悪文だな」と考へるやうになつたのです。ファンの方には申し訳ございませんがね。
さういへば西原理恵子さんの漫画で、よしもとばななさんに「お父さんの本はいつごろから読めたか(理解できるやうになつたか、の意)」と問ふたところ、「今でも読めません(理解できません)」と応へたのがありました。

ところが本書『日本近代文学の名作』は、さういふ書物とは成立事情が違ひます。即ち、吉本氏が口頭で語る内容を、毎日新聞社学芸部の大井浩一、重里徹也両氏がまとめたものであります。語り言葉なので、まことに解りやすい。
何でも吉本氏本人の視力が俄かに衰へ、原稿用紙の升目を埋める自信が無かつたとか。それはそれで寂しい話ですな。

近代文学といふことで、二葉亭四迷から太宰治まで、明治~昭和戦前の作家を24名取り上げてゐます。作家及びその作品の選抜については、毎日の二名によるものださうですが、吉本氏の「わがまま」により、一名だけ外したとか。一体誰なのか、気になります。

従つて江戸川乱歩のやうに、「どういう作家なのか、大まともに論じられるほど読んでいない」と告白する箇所もあります。
一方、岡本かの子については、「漱石、鷗外といった男性作家と肩を並べられるほどのものを書いている」と高評価であります。思はず書棚の「岡本かの子集」を取り出したことであるなあ。
また、鷗外の成功の要因として、あくまでも医学者としての本分を忘れず、文学者としては素人の立場を守つた事であらうなどと指摘します。
さらに、芥川龍之介「玄鶴山房」を激賞するかと思へば、ラストで社会主義者の名前がとつてつけたやうに出てくるのを「つまらない」「軽薄なことだ」と断ずる。自由自在であります。

本書は決して「名作案内」ではなく、ある程度名作を読み込んだ人が唸る種類の一冊と申せませう。同時に、構成担当の御両名の力量にも賛辞を贈りたい。
わたくしとしては、「西脇順三郎」を加へていただきたかつた喃。




戦後史の空間
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戦後史の空間

磯田光一【著】
新潮社(新潮文庫)刊
2000(平成12)年8月発行

磯田光一氏が世を去つたのが1987(昭和62)年、もう三十年にもなるのでした。まだ56歳の若さだつたのです。
歴史に残る事件や出来事がこれから続発するといふ時期に亡くなつたといふことになります。磯田氏がベルリンの壁崩壊やソ連の消滅を目の当たりにしてゐたら、如何なる視点から読み解くのか、まことに興味深いものがありますが、まあそれも詮無いこと。

新潮文庫の説明文によると、『戦後史の空間』は『鹿鳴館の系譜』『左翼がサヨクになるとき』と併せて三部作を為してゐるさうです。まあそれはいい。とにかく敗戦後の日本を、文学作品を通じて論じます。
敗戦における「無条件降伏」の意味とは何か。ポツダム宣言の条件による降伏とは、本来「有条件降伏」となるべきであると。ポツダム宣言を「無条件に」受け入れる事が、即ち「無条件降伏」ではないのだと指摘します。

また「占領の二重構造」では、戦後のGHQによる占領のみならず、戦前戦中の陸海軍による「軍事占領」に注目します。軍部の圧迫から逃れられた解放感と同時に、新たに米軍による日本の支配の不安。つい先日まで「鬼畜米英」などと喧伝してゐた相手に、媚びへつらふ風潮を苦々しく感じてゐた人も多かつたと言はれてゐます。太宰治もさういふ、偉い人たちが戦後に豹変してしまつたことに失望を隠しませんでした。

さらに戦後を示す数々のキーワード(「新憲法制定」「安保改定」「洋行」「転向」「高度成長」......)を、磯田流に読み解きます。戦後日本は世界にも例のない高度成長で右肩上がりの発展を続けてきたと言はれますが、その変容の仕方や、失つたものなどを情け容赦なく眼前に提示するのでした。

そして最終章の「もうひとつの“日本”」。人々は「戦後」といふ時代を前提にして語り過ぎると指摘。それを崩す作業仮説として、三つの想定を試みますが......中中衝撃的な内容ですな。米国ではなくソ連に占領されてゐたら......日本が米国の51番目の州に編入されれてゐたら......「戦後」そのものの枠組を破砕したら......
荒唐無稽な空想としてではなく、どうやら米国に依存し保護されながら同時に反発を繰り返してきた「戦後」の本質を炙り出す作業だつたやうです。

なほ、引用された数々の文学作品ですが、わたくしは結構読んでゐたつもりなのに、そんな小難しい事は考へにも至らなかつたのであります。情けない喃。



先日、映画監督の坂野義光氏が亡くなりました。86歳。商業映画はあまりたくさん撮つてゐないのですが、何と言つても「ゴジラ対ヘドラ」で、ゴジラを飛ばせてしまつた奴として有名であります。放射能を吐きながら、後ろ向きにタツノオトシゴみたいな恰好で飛んでゆくのでした。あれにはぶつ飛んだ人も多かつたでせう。
そのせいか、その後は声がかからず、ドキュメンタリーの方面で活躍してゐたやうです。近々拙ブログにて著書を取り上げる予定であります。今夜は「ヘドラ」の追悼上映をするかな。
合掌。


発想法
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発想法 リソースフル人間のすすめ

渡部昇一【著】
講談社(講談社現代新書)刊
1981(昭和56)年11月発行

先達て逝去された渡部昇一氏であります。紹介される時には、枕詞のやうに「保守派の論客」といふ謳ひ文句が付く人で、色色と発言が問題視されたこともございます。わたくしは中高生の頃、本多勝一氏の著書を読み耽つてゐた為、それと対極に立つ渡部氏の言葉には素直に首肯しかねる事が多かつたのです。
それにもかかはらず、何故か渡部教授の文章が目に留まると、無視できぬといつた存在でした。不思議ですねえ。

専門が英語学である渡部氏の代表的な著作は何か、わたくしは存じませんが、一番売れたのは『知的生活の方法』ではないでせうか。わたくしも当時、続篇と併せて拝読したものです。
しかし天邪鬼なわたくしは、ここで『発想法―リソースフル人間のすすめ』を登場させる訳です。1981(昭和56)年、千代の富士の「ウルフフィーヴァー」の年に刊行されてゐます。当時渡部氏は51歳、もつとも脂の乗り切つた時期ではありますまいか。

サブタイトルにある「リソースフル」とは何か。表紙の言葉を引くと―

リソースフル(resourceful)とは、発想の豊かさを表わす言葉である。語源的には「再び立ち上がる」「再び湧き出す」ということだが、転じて、どんな状況においてもアイデアが出てくること、つまりは、「汲めども尽きぬ知恵の泉(ソース)」をもつことである。リソースフルであるためには……、より深く豊かな泉をより多く身につけるには、どうすればよいのだろうか。まずなによりも、発想の源は自分自身の内部にある。みずからの独自で切実な体験を直視し、忘れず、みがきあげることを土台に、貴重な泉としての外国語習得、新鮮な目をもつこと、幅広い耳学問など、思いつきではない、柔軟な発想を生むための心がまえと方法を説く。

なのださうです。

例へば、森鷗外と坪内逍遥の論争を引き合ひに出します。「没理想論争」と称するさうですが、その詳細はしかるべき文献に当つていただくとして、この論争は世間的には鷗外の勝ちとみなされてゐるさうです。その理由を、逍遥は英語一本だつたのに対し、鷗外はそれに加へて、ドイツ語も出来たからだと著者は推測します。当時は外国語の文献にどれだけ当つたかで勝負が決まるやうなところがありました。即ち鷗外の方が井戸(泉)が多く、枯れ難い環境にあつたと。

葛西善蔵や嘉村磯多のやうな人は、寡作に終つた人たちですが、何しろ水を汲むべき井戸が自分一本しかない。小説を書くための取材や調査をする訳でもなく、外国の文献に当らず、机に向かひ自分の事をうんうん唸りながら書くだけであるので、全くリソースフルではないと論じます。
一方、泉の豊かな作家として、松本清張や夏目漱石を挙げてゐます。両者とも、泉が溢れんばかりの書きつぷりであると。さらに谷崎潤一郎と江戸川乱歩(いづれも「大」が頭につく人ですね)を対比させて、いかに井戸の数が多かつたかを示してゐます。

井戸といへども、際限なく水を汲み上げてゐては、いつかは枯れます。そこで第一の井戸が枯れる前に、第二の井戸、それも枯れさうになれば第三の井戸から汲み上げ、さうかうするうちに第一の井戸は再び水量が戻つてくるであらう、と。即ちその井戸の多さがリソースフルであるか否かの目安なのですね。

それにはまづ「異質な目」を養ふ事が肝要だと。先天的な、生れた環境が否応なしに異質な目を作ることもあり、後天的な努力や発想(不幸な体験も、逆説的に言へば「異質な目」を得るチャンスだといふ)で、井戸の数を増やすことも可能でせう。
終章では「天からの発想・地からの発想」と題して、オカルト的な現象からの発想を説いてゐます。本書の中では若干浮いてゐますが、後年渡部氏は精神世界関連の著作も物してゐますので、今から思へば特段訝しがることもございません。

ところどころに「さうかなあ」と首を傾げる記述もありながら、全体として力強いメッセージを受け取つたと感じられます。のんべんだらりと暮す自分がまことに愚劣な存在に(事実さうでせうが)思へてくる、ちよつと尻を叩かれてゐるやうな気分になる一冊と申せませう。合掌。


考える技術・書く技術
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考える技術・書く技術

板坂元【著】
講談社(講談社現代新書)刊
1973(昭和48)年8月発行

板坂元氏(1922-2004)は、米国事情や江戸文学、日本人論から果ては少しエッチな男女の話まで幅広く活躍した人であります。
「論文の書き方」みたいな本かなと思つたら、むしろその前段の発想のヒント・情報収集・ツールの使ひ方などに力点が置かれてゐます。あたかもそれらが充実すれば、自然と文章は紡ぎ出されるのさ、とでも言つてゐるやうです。板坂版『知的生産の技術』ですな。

「Ⅰ 頭のウォームアップ」:脳を刺戟することの重要性が語られます。記憶訓練はわたくしも良くやります。全国の駅名を記憶する、全国の市町村を記憶する、戦後の幕内力士をフルネームで覚える、など源氏川苦心らしいものでやつてゐます。それにしても「KJ法=マージャン」とは......
「Ⅱ 視点」:本当に「いつも」「みんな」ほど好い加減な言葉はありませんね。子供が親に物をネダる時「みんな持つてるんだよ」と訴へますが、教室に40人ゐても友人が1-2人持つてゐれば「みんな」になつちやふのです。
「Ⅲ 読書」:自分の専門分野とは無関係の雑誌を買ひまくり、それらの全頁に目を通す。結構な物入りですね。現在ならネットで代用出来る?
「Ⅳ 整理」:カードを色分けしたり、文房具にこだはつたり、整理の作業を愉しくする工夫は参考になります。もつとも今ならPCで処理してしまふ部分が多いでせうが。
「Ⅴ 発想」:さあ、情報は集めた、次の一手だ。これらを発酵させ、独自の発想へ繋げられるか。「身体を動かす」「自然発酵をうながす」「おのれを信じる」など、少し情緒に流れてゐますかな。
「Ⅵ 説得」:説得には三つの要素があると著者は述べます。板坂氏独自の表現を借りると、「だきこめ」「なめられるな」「のせろ」といふことになります。信用を得る為の「権威づけ」は中中難しいですね。下手をすればスノビスムに陥りさうです。
「Ⅶ 仕上げ」:論述の形式として「逆ピラミッド型」「ピラミッド型」が存在すると喝破します。前者は主要な主張部分を先に述べ、その説明が後に続く型、後者はその逆ださうです。演繹型と帰納型といふ分け方も出来ると。
「Ⅷ まとめ」:締めくくりは精神論ですかな。誠実であること、情熱と忍耐など、道徳臭が漂ひますが、著者の苦い経験からの結論のやうです。

頭でつかちの論ではなく、著者自身の長年の活動から得たノウハウが詰まつてをります。読物としても愉快。40年を超すロングセラアも納得であります。
ではまた。機会が有ればお会ひしませう。