源氏川苦心の快楽書肆
古い本を探しては読みふけつてゐます。よければお付き合ひくださいな。
一人ならじ
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一人ならじ

山本周五郎【著】
新潮社(新潮文庫)刊
1980(昭和55)年2月発行

今年は、山本周五郎の没後50年に当ります。
この人の作品は映像化されたものが多いのですが、そのどれもがわたくしの好みではないのです。それで何となく原典からも遠ざかり勝ちになりますが、実際に作品を読むと素晴らしいのであります。映画やドラマになればなるだけ、却つて新たな読者が減るやうな気がするのはわたくしだけでせうか。

有名な作品はたくさんあるけれど、ここでは何となく『一人ならじ』。いちにんならじと読みます。
全14篇の短篇小説が収録されてをります。発表時期は昭和15~32年にわたりますが、そのほとんどは戦前・戦中に集中してゐます。
その内容は、封建的な武士世界の厳しい社会を背景に、己の信念に生きる人たちを描いてゐます。中中良い。

まづ「三十二刻」の宇女。嫁ぎ先の舅から冷たい仕打ちを受けながら、戦において非凡な対応を見せます。ちよつと出来過ぎ。
「殉死」における八島主馬と福尾庄兵衛。殉死を禁じられた中、主君の死に際して二人は対照的な行動をとります。わたくしは八島の現実的な選択を支持したい。
「夏草戦記」では、立番を離れたらいかなる理由でも死罪、との掟の中、三瀬新九郎は敵方に情報を流す裏切者を討つ為に持ち場を離れます。結果多くの味方の生命を救ふのですが(本来なら殊勲者)、それを語る事無く死罪を受け入れるのです。
「薯粥」は我が隣市の岡崎が舞台。十時隼人なる剣豪が登場しますが、少し理想化し過ぎかも。
「石ころ」の多田新蔵に、妻の松尾は結婚当初失望してゐました。しかし新蔵には隠された真の姿があつた。
「兵法者」における水戸光圀は、後年自ら語るやうに残酷だと思ひますよ。
「一人ならじ」の栃木大介は、犠牲的精神からいくさの最中に片足を失ひます。しかし周囲からは大して評価されませんでした。なぜか......? さすがに、表題にもなるくらゐの作品であります。派手ではないが読後にじわじわと味はひが広がります。
「柘榴」における真沙は、新婚時代、その若さゆゑに夫の本質を見抜けなかつたと反省してゐますが、柘榴を新妻に例へる夫はやはり気持ち悪い。
「青嵐」の登女は、夫に隠し子がゐると未知の女から告げられ、その疑惑を夫に問ふこともできずに、子供の世話をみます。いささか現実離れした対応ですが、その結果、最終的に夫婦の結束は強まることになりました。
「茶摘は八十八夜から始まる」も岡崎もの。領主の不行状を改める為、水野平三郎は相伴役を申し出ます。実は水野自身も放蕩生活から逃れられず、自分を戒めるつもりで願ひ出たのでした。その結果、どうなつたのか......?
「花の位置」のみ時代が違ひ、太平洋戦争末期の東京が舞台。発表されたのも正に昭和20年3月。この時代にも目が曇る事無く、かくも冷静に庶民の戦争に対する思ひを活写してゐます。

本書は必ずしも作者の代表作とか有名な作品といふ訳ではありませんが、いづれも水準以上の出来栄と存じます。やはりヤマシュウ、只者ではないな。
出来過ぎのストーリィに、人によつては修身の教科書みたいだと鼻白むかも知れませんけどね。ぢやあまた。


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古代史紀行
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古代史紀行

宮脇俊三【著】
講談社(講談社文庫)刊
1994(平成6)年9月発行

宮脇俊三氏の最晩年のライフワーク、「日本通史の旅」であります。
もう鉄道紀行は日本全国色々な切り口から書き尽くし、海外もアジア・北南米・欧州と目ぼしいところは乗りまくつた。次いで「廃線紀行」を一つの主要ジャンルとして確立し、さらに宮脇氏の得意分野「歴史」をからめた紀行文が誕生した訳です。
宮脇氏はかつて『徳川家康歴史紀行5000キロ』なる著作を世に問ふた事があり、その際に「歴史紀行」の面白さに目覚めたのではないかと愚考してゐます。

従来の鉄道紀行とは違ひ、あくまでも歴史の流れに沿ふので、同じ土地を時代別に何度も訪れたり、かつては乗り鉄一辺倒だつたのが、名所旧跡を中心に回る旅になるのでした。歴史遺構が鉄道沿線にあるとは限らず、否むしろ駅から遠く離れた場所に点在することが珍しくないのです。
従つて移動手段には鉄道に拘らず、バスやタクシー、徒歩など様様であります。特にタクシー利用率は高く、長距離でも躊躇ふことなく乗りまくつてゐます。当つた運転手はさぞほくほくでせう。

文献に現れる最初の地として、まづ対馬から旅は始まります。むろん出雲や北九州など古代史ゆかりの場所も訪れますが、何と言つても畿内が中心となります。さらに百済国を訪ねて韓国へ、遣唐使を偲んで上海へ、海外へも出かけます。
著者も述べるやうに、古代史は史実と伝説がない交ぜになり、想像力を掻き立てられる余地が多く、素人でも議論に加はりやすい。事実が分かつてゐないのだから、言葉は悪いですが好き勝手な想像もできるのです。

本来ならサクッと終る筈だつた「日本通史の旅」ですが、予定外に長期連載となり、とりあへず奈良時代の終焉までを『古代史紀行』として刊行したのであります。読者としても、長く宮脇氏の文章を読めるのは望むところ。個人的には、せめて明治維新あたりまで続けて欲しかつたのですが......



六番目の小夜子
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六番目の小夜子

恩田陸【著】
新潮社(新潮文庫)刊
2001(平成13)年1月発行

恩田陸さんが直木賞を受賞したといふ事で、デビユ作の『六番目の小夜子』登場であります。「幻の」とか「伝説の」などといふ冠が付く本作。何故だらうと思つてゐたら、著者自身が「あとがき」で説明してゐました。なある。
直木賞は、かつての新人発掘の意義はなくなり、今やすつかり中堅作家(時には大ヴェテランも)が受賞する文学賞になつてしまひました。恩田陸さんもデビユしてから、25年くらゐ経つのではないでせうか。まあ別段どうでもいいけど。

小説の舞台はある地方の高等学校。結構な進学校とお見受けしました。この学校では「サヨコ伝説」なる言ひ伝へがあり、三年に一度「サヨコ」が選出されます。先代「サヨコ」の卒業式に、次の「サヨコ」にメッセージが届けられるのでした。その正体は、代々の「サヨコ」しか知りません。で、「サヨコ」のやることは、一年にたつたひとつだけ。
そしてこの物語は、「六番目のサヨコ」の年の始業式に始まるのであります......うん、何だか面白さうぢやないかと期待させます。

物語の視点は固定されず、舞台となるクラスにゐる関根秋・花宮雅子・唐沢由紀夫らによる群像劇と申せませうか。そもそも「プロローグ」を語る「私」とは結局誰の事か、最後まで分からなかつた喃。そのクラスに、「津村沙世子」なる転校生がやつてきます。いつたい彼女は「サヨコ伝説」と関係が有るのか? 巻き込まれる形で「サヨコ伝説」に関はる事になつた関根秋は、友人設楽正浩とともに謎に迫るのですが......

お膳立ては中中凝つてゐます。「サヨコ伝説」の謎に迫る為に、設楽が計画した学園祭の「芝居」も興味深い展開であります。ここまで広がつた風呂敷をどのやうに収めるのか、気になるところです。読後の印象は悪くないし、まあ良かつたよね、といふ感じなのですが、疑問が疑問のまま終つてしまつた点が多いですな。
佐野美香子は付け火をした後どうなつたのか、津村沙世子は何故それを唆したのか、黒川先生の関与度はどれだけのものだつたのか、他にも色色と、何だかはつきりしないのであります。単にわたくしが重要な伏線とかを読み落としたのかなあ。
ま、いいや。デハ今日はご無礼いたします。



それゆけ結婚
無題

それゆけ結婚

森村桂【著】
角川書店(角川文庫)刊
1976(昭和51)年10月発行

先達て、女優でタレントの村井美樹さん(37)が遂に結婚報告をいたしました。ソレ誰?と訝しがる人がゐるかも知れませんが、ここではスルーします。それで熱心なファンは祝福をしつつも意気消沈。またもや「美樹ロス」などと称する人も続出。別段彼女は引退する訳ではないのに。
面白いのは、村井さんのブログ読者数が、結婚報告後にぐわつと減つてゐることです。わざわざ読者登録を取り消すとは、随分屈折してゐる喃と苦笑するのでした。

といふ訳で、実に強引ながら『それゆけ結婚』。当時結婚してまだ数年の森村桂が、読者に向けて恋愛・結婚のアドヴァイスをいたします。昭和40年代くらゐでせうか。「女の幸せは結婚」などと言はれてゐた時代であります。
24歳は売れ残り」「家付きカー付きババ抜き」「一流大卒、一流会社勤務、月給4万円以上、175cm以上の次男」「花嫁修業」「わがダンナさま」......まだまだ女性は男性に従属して生きるのが当り前の頃。現代の女性が読めば激怒するかも知れません。あるいは「これは何処の国の話ですか」などと真顔で聞いたりして。

本書の時代背景としては、恋愛結婚がお見合い結婚を逆転した頃でせうか。とは言つても、本書にも度度「お節介」が登場しますが、出会ひの機会がない人でも男女問はずどこからか相手が見つかつたものであります。今から思へばまだまだ恵まれた時代。例へば1965(昭和40)年における生涯未婚率は男性1.50%、女性2.53%であつたのに対し、これが2010(平成22)年になると男性20.14%、女性10.61%まで膨れ上がつてゐます(国立社会保障・人口問題研究所「人口統計資料集(2014)」)。
ただ、『それゆけ結婚』の時代はやはり男尊女卑思想が蔓延り、肝心の女性自身がそれに甘んじてゐる様子が見てとれます。森村桂さん本人まで、暴君でもダンナさまに甘えてゐた方が楽だわ、みたいな雰囲気を醸し出してゐます。何てこつたい。

森村さんのアドヴァイスの中には、現在にも通用する部分は少なからずあるとは存じますが、それ以上に違和感を感じる部分が多い。現代女性が読むならば、本書は当時の婚活事情を知る資料として興味深いのではないでせうか。



和解
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和解

志賀直哉【著】
新潮社(新潮文庫)刊
1949(昭和24)年12月発行
1969(昭和44)7月改版
2011(平成23)年11月改版

順吉くんは父親との関係がぎくしやくしてゐます。はつきり言へば不仲であります。かつて足尾銅山の鉱毒事件を調べやうと行動を起こした順吉くん。しかし父親は、今ふうに言へば財界人。足尾銅山の経営者とも浅からぬ関係があり、そんな問題をほじくる息子を立場上許すことが出来ませんでした。まあそれが元で父子の間に溝が出来たやうです。尤もこれは順吉くん側の言ひ分ですが。

そんな状態ですので、順吉くんは父のゐる麻布の実家から出て、我孫子に妻と赤子とともに生活してゐます。順吉くんは祖母に顔を見せる為に、父のゐぬ間にこつそりと麻布の家に行つたりする。この行為が、更に父の態度を硬化させてゐます。周囲は、二人の反目を悲しく思ひ、何とか和解をして欲しいと願つてゐます。しかし順吉くんは、その解決のために、赤子を利用せんと考へる周囲の空気に反駁するのです。その心持は分かりますね。
しかし、この赤子の運命は......

表題が『和解』なので、読者はきつと、最後には和解するのだらうなと予想するでせう。その通りなのですが、和解が成る瞬間といふのは、案外呆気ない。読者は「さあもうすぐ感動の和解シーンだな。もうこちらは泣く準備が出来てゐるぜ、カモーン」と待ち構へてゐるでせうが......あ、あんまり余計な事は言はぬやうにしませう。

志賀直哉氏の文章と言へば、過剰な装飾がなく贅肉が削ぎ落されて、含蓄を含んだストイックなものといふイメエヂでせうか。谷崎読本でも褒めてゐましたね。
本作でもスィンプルな文章が並んでゐます。お陰で文末が「~た」「~た」「~た」の連続で、単調な印象を受けます。得意の「不快だつた」も健在。食べ物に例へるなら、「特に美味しいものではないが、一度食べると病みつきになる」類ひのものでせうか。何しろ、「小説の神様」ですから、神様がツマラヌ物を書く筈がない......と書いて、我ながら毒が含まれてゐるなと反省。

ところで、本作でも出てきますが、赤子をあやす時に「おお誰が誰が」などと申します。わたくしの周囲でも、年配女性が昔よく発してゐました。どういふ意味なのでせうか。誰がお前を泣かせたといふ意味ですかね。「おお誰が誰が」