源氏川苦心の快楽書肆
古い本を探しては読みふけつてゐます。よければお付き合ひくださいな。
アドルフ
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アドルフ

バンジャマン・コンスタン【著】
新庄嘉章【訳】
新潮社(新潮文庫)刊
1954(昭和29)年6月発行
1967(昭和42)年3月改版
2004(平成16)年6月改版

主人公はタイトルにもある「アドルフ」。このアドルフの一人称語りで物語が進みます。こいつは恵まれた境遇で将来も前途洋洋な若者でありながら、女性に対してはかなり不道徳な、歪んだ考へを有してゐるやうです。これは父親の影響があるらしい。父は「結婚を問題にしない限りは、どんな女でもものにし、次にこれを棄てても構わない」(本文より)などといふ思想の持主だと「私」は語つてゐます。

しかし悲しいかな対象となる女性が見つからない。そんな時、P***伯爵が囲つてゐるエレノールなる女性と巡りあひます。彼女はアドルフよりも十歳も年長で伯爵との間に子供も儲けてゐるのですが、「胸は恋を欲し、虚栄心は成功を要求していたときに、突然目の前に現われたエレノールを見て、この人ならばと思った」(本文より)などと白状してゐます。
アドルフのアプローチに対して、憎からず思ひながらも慎重な姿勢を崩さぬエレノールでしたが、最後にはアドルフの想ひを受け入れます。

無論周囲から祝福されるやうなカップルではありません。その為、二人は多くのものを犠牲にしました。特にエレノールは、世話になつたP***伯爵を裏切り、子供を捨て、慣れ親しんだ土地を去るのです。あゝそれなのに、全てを失つたエレノールを、アドルフは次第に重荷に感じるやうになります。そんな彼の心の変化を読み取つたエレノールは......?

本作は近代心理小説の魁と呼ばれる、19世紀おフランス文学の一作。いやあ面白い。歴史的作品とか、記念碑的作品などと呼ばれるものは、その歴史的意義のみで語られ、実際は退屈で後世の審判には堪へられず、ひつそりと古典の棚に収まる作品が多い。
しかしながら『アドルフ』は現在の読者にも十分アピールします。恐らく多数の男が、アドルフと同じ思ひを、少ながらずしてゐるからではないでせうか。少なくともわたくしの性格はアドルフに似てゐます。ちよつとだけね。
エレノールを重荷に感じながら、彼女を傷つけることを恐れるあまり、身動きが取れなくなるアドルフの心の動きは、苦しい程理解できるのであります。しかしその態度が、結局エレノールを苦しめてゐるのですね。それもアドルフは承知してゐるから、一層蟻地獄の穴に嵌つて行くのでした。

ところで、アドルフは作者コンスタン自身がモデルであります。実際コンスタンは女性にはルーズだと言はれ、有名なスタール夫人以外にも多くの浮名を流したさうです。ゆゑに名前はコンスタン(constant)だが、名は体を表さず、実はアンコンスタン(inconstant=浮気者の意がある)だと綽名されたとか。(三浦一郎『世界史こぼれ話』より)
いくら内面に苦悩を抱へてゐても、世間の目は単なる女たらしなのでした。まあ、そんなところでせうね。



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シェイクスピア物語
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シェイクスピア物語

チャールス・ラム【著】
松本恵子【訳】
新潮社(新潮文庫)刊
1952(昭和27)年7月発行
1996(平成8)年8月改版

さて沙翁イヤー(没後400年)の最後に、ラム姉弟の『シェイクスピア物語』であります。少年少女向けに、沙翁作品理解の一助の為に書かれました。無論沙翁の原作は戯曲ですが、ここでは小説形式で易しく書き直してゐます。
日本ではリライトといふと、原典を冒瀆するとか、マイナスのイメエヂがあるかと思ひますが、英語圏では昔からリライトは一つのジャンルとして確立してゐるとか。さういへばわたくしも中高生の頃、単語2000レヴェルのペイパーバックシリーズを結構読みました。

ラム姉弟は沙翁作品のうち20篇を選抜し、悲劇を弟チャールスが、喜劇を姉メアリが執筆しました。ちなみに沙翁の一ジャンルを為す「歴史劇」は無視されてゐます。なんでですかね。
新潮文庫版は松本恵子さんの訳。「前がき」を読むと、翻訳に当つて「新かなづかい」「制限漢字」の範囲内で書くために苦心をしたと述べてゐます。それが原因で表現を変へた箇所もあるさうです。無駄で無意味な努力だと思ひますよ。学校の教科書ぢやないのだから、当用漢字なぞ気にすることはないのに。
ページ数の関係で、本書では七篇が割愛されてゐます。訳者によれば、「筋が同系であったり、あまりおもしろくないと思うもの」ださうです。しかし、後期の「浪漫喜劇」が複数入つてゐたり、逆に中期の「問題喜劇」が一篇も収録されてゐなかつたりして、バランスが良いとは申せません。単に人気作を選んだだけではないでせうか。まあいいけど。

などとぶつくさ申しましたが、沙翁作品のおさらひとして、大人が読んでも悪くないです。わたくしも、筋を忘れかけてた「ベロナの二紳士」などが読めて良かつた。年末年始に沙翁に親しむのも乙なものであります。デハ良い年を。



狭き門
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狭き門

アンドレ・ジッド【著】
山内義雄【訳】
新潮社(新潮文庫)刊
1954(昭和29)年7月発行
1975(昭和50)年9月改版
2013(平成25)年7月改版

先日取り上げた遠藤周作氏の『作家の日記』の中で、クリスト教文学としてのジッドについても言及がありましたので、『狭き門』を開いてみます。
手つ取り早く、カヴァー裏の紹介文を引用すると―

早く父を失ったジェロームは少年時代から夏を叔父のもとで過すが、そこで従姉のアリサを知り秘かな愛を覚える。しかし、母親の不倫等の不幸な環境のために天上の愛を求めて生きるアリサは、ジェロームへの思慕を断ち切れず彼を愛しながらも、地上的な愛を拒み人知れず死んでゆく。残された日記には、彼を思う気持ちと“狭き門”を通って神へ進む戦いとの苦悩が記されていた......。

まあ、愉快な話ではございません。血沸き肉躍るストオリイでもありません。実質無宗教が多い日本人にとつては、理解しにくい内容でもあります。アリサつてさあ、何だか面倒くさい女だよね、なんて言はれさうです。

魂の救済や心の安寧を宗教に求めるならば、衣食足りて礼節を知る世界には宗教は不必要な気もします。せつかく広い門があるなら、そちらを通れば良い。態々狭い門をくぐる必要はありますまい。しかしアリサは、ストイックにも楽な道を歩まなかつたのでした。ジェロームへの書簡や日記を読むと、自己犠牲に陶酔してゐたとも受け取れます。若き日の遠藤周作氏は、「宗教的心理の躓き」と表現しました。

相思相愛の関係なのに、周囲も祝福するのに、戦争や病気などで引き裂かれるやうな運命でもないのに、成就しない二人の愛。ジェロームはかはいさうだし、通俗的には妹のジュリエットが掴んだ小市民的な幸せを応援したくなります。
しかし本書のアリサの告白は、比類ないほどの美しさを見せます。本書の白眉であります。純粋すぎて、穢れたわたくしには結構眩しい。目が眩んでゐる間にアリサは向かふ側へ行つてしまひました。

生意気を言はせていただくと、翻訳がちよつと......仏語解釈の講義ならいいでせうが、文藝作品の翻訳としては、用語の選択とか、紋切り型の訳語とかが気になつてしまひました。新訳が欲しいな、と思つてゐたら、既に「光文社新訳古典文庫」の一冊として出てゐました(訳・中条省平/中条志穂)。
此方の方が良かつたかな?



夏の夜の夢・あらし
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夏の夜の夢・あらし

ウィリアム・シェイクスピア【著】
福田恆存【訳】
新潮社(新潮文庫)刊
1971(昭和46)年7月発行
2003(平成15)年10月改版

沙翁喜劇の代表作の一つといはれる『夏の夜の夢』と、最後の浪漫喜劇『あらし』をカップリングした、お徳用の一冊であります。

『夏の夜の夢』は、執筆時期としては「喜劇時代」の幕開けくらゐですかな。それまでの、例へば『じゃじゃ馬ならし』のごとき写実的な、いかにも喜劇喜劇したものとは一線を画してゐます。妖精も出るしね。
わたくしは沙翁劇に於ける「道化」が大好きなのですが、それに劣らず「妖精」も熱愛してゐます。本作ではパックといふ「茶目な妖精」が登場します。しかし彼は命令された人物とは(誤つて)別人に惚れ薬を塗つたりして、騒動を起こすのであります。
そして殿様の結婚を祝つて、無学だが人間味たつぷりの愛すべき職人たちが披露する芝居が面白い。オルガン修理屋、大工、仕立て屋などが、観客に気を遣ひすぎて却つて訳の分からないドタバタ劇になつてゐます。「たまたま、それがし、スナウトなるもの、石垣の役をば演じます」。
最後の口上でパックが述べるやうに、すべて一夜の夢の物語と思へば、こんなに素敵な夢はない。

一方『あらし』は、最晩年にあたる「浪漫劇時代」の、しかも一番最後の作品。近年の訳では『テンペスト』となつてゐることが多いやうです。この後は『ヘンリー八世』を残すのみですが、これは沙翁の未完原稿を他者が完成させたとも、合作ともいはれてゐて、沙翁の単独執筆としては『あらし』が事実上最後の作品なのださうです。
ミラノ大公だつたプロスペローは、その弟アントーニオーにその地位を奪はれ、追放された身。妖精エーリアルの魔力を借りて、弟とその一味に壮大なる復讐を遂げる、といふ物語。恋愛あり、陰謀ありの世界ですが、すべてはプロスペローの思惑通りになつていきます。これはエーリアルの力が大きい。彼はプロスペローには恩があるため逆らへず、とにかく酷使され、不満たらたらながら抜群の働きを見せるのであります。

結末を知らぬ当時の観客は、これを喜劇と認識せずに、はらはらしながら観劇したのではないでせうか。プロスペローが完全に復讐を遂行してしまへば、とても喜劇にはなりません。そこで彼は、アントーニオーらが十分苦しんだとみて、赦すのであります。そして魔法の杖も捨てて、以後は魔法を封印します。さらにエーリアルも解放してあげるのです。
一応ハピイエンドと申しても良いのですが、どうもアントーニオーの最後の台詞を見ると、心から反省してゐるのかどうか、疑はしい。そこを「エピローグ」で、観客に向けて拍手をもつて我に力を、てな感じで呼びかけます。自分の今後の安寧は、観客に委ねるといふことですかな。

最後に、いつもながら福田恆存氏の翻訳には舌を巻きます。そして充実した解題と中村保男氏の解説。これらを読む為だけでも、新潮文庫版を選択する価値があると申せませう。



風車小屋だより
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風車小屋だより

アルフォンス・ドーデー【著】
桜田佐【訳】
岩波書店(岩波文庫)刊
1932(昭和7)年7月発行
1958(昭和33)年10月改版

最近は「ドーデ」といふ表記が一般的のやうですが、ここでは岩波文庫版に敬意を表して「ドーデ―」で通しませう。
筒井康隆氏の『乱調文学大辞典』で「ドーデ―」の項を引くと、ただ一言「何が?」と書いてあります。初めて読んだ時は吹き出したものです。これが仮に「ドーデ」ならば、この項は成り立ちませんので、やはり「ドーデ―」に一票投ずるところであります。

アルフォンス・ドーデー(1840-97)は、風光明媚な南仏プロヴァンスの風車小屋へ移住しました。今風に言へば田舎暮らしでせうか。うさぎやふくろうといつた「先住民」たちを驚かせながらも、自然と田園生活に溶け込む様子が活写されます。
ドーデ―はこの地で、パリに住む友人に宛てた手紙形式で、30篇(「序」を含む)の短篇を収めた『風車小屋だより』を執筆するのです。ただし岩波文庫版では、27篇しか収録されてゐないやうです。残る3篇はどこへ行つたのだらう。意図的に翻訳しなかつたのでせうか。

内容は、主に風車小屋のあるプロヴァンスでの出来事を綴つたものですが、実際に見聞したことや伝聞で知つたことを題材にしてゐます。「スガンさんのやぎ」「法王のらば」といつた動物を擬人化したものや、「散文の幻想詩」「黄金の脳みそを持った男の話」のやうに幻想的な物語、「アルルの女」「二軒の宿屋」みたいな悲話など、文字通りの珠玉篇が読者の胸を打つのであります。
中でも、後に歌劇で有名になつた「アルルの女」は、タイトルとなつたアルルの女本人は登場せず、彼女に心奪はれた若者の行動を描写することで、読者の想像を掻き立てます。

毎日忙しく、精神的に余裕のない生活を余儀なくされてゐる人なんかには、最適の一冊ではないですかね。ドーデ―の風車小屋を想起しながら、一服いたしませう。
デハ御機嫌よう。ご無礼いたします。