源氏川苦心の快楽書肆
古い本を探しては読みふけつてゐます。よければお付き合ひくださいな。
この世でいちばん大事な「カネ」の話
この世でいちばん大事な「カネ」の話 (よりみちパン!セ)この世でいちばん大事な「カネ」の話 (よりみちパン!セ)
(2008/12/11)
西原 理恵子

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この世でいちばん大事な「カネ」の話
西原理恵子【著】
理論社刊
2008(平成20)年12月発行


「よりみちパン!セ」の一冊。漫画家西原理恵子さんが年少者に「カネ」の話を語ります。
西原さんならではの金銭観。はちやめちやなことが書いてあるかといふと、さうでもない。
実に真面目に、「カネ」といふテエマについて述べてゐます。もつとも彼女の作品を普段読まない人にとつては、どこが真面目なのだと問ふかもしれませんが。

5章構成で、章のタイトルが直截的です。自らの経験則をそのまま述べたやうな感じ。
第1章は「どん底で息をし、どん底で眠っていた。「カネ」がないって、つまりはそういうことだった。」
まだ大人の世界を知らぬ頃の、子供時代の西原さん。父親の死をきつかけに、お金がないことでどんな不幸が訪れるかを身をもつて体験します。
第2章。「自分で「カネ」を稼ぐということは、自由を手に入れるということだった。」
高校を退学させられた時の話。元は自分の飲酒が原因ですが、裁判に於ける学校(先生)たちの対応には、心底失望したことでせう。「大人の社会の見たくない裏側をしっかりと見たと思う」と。
「どうしたら夢がかなうか」ではなく、「どうしたらそれで稼げるか」と考えよと西原さんは言ひます。プロフェッショナルとアマチュアの差もここが分れ道になるやうな気がします。
第3章は「ギャンブル、為替、そして借金。「カネ」を失うことで見えてくるもの。」
麻雀漫画を描くことがきつかけで、ギャンブルの世界にのめり込む。手で触れるカネの実感を自分に叩き込むことで、金銭感覚は保たれるのではないかといふ。
第4章。「自分探しの迷路は、「カネ」という視点を持てば、ぶっちぎれる。」
「カネ」について語ることが下品とされる風潮に疑問を呈します。私の親もカネについては実践的なアドバイスをくれたので、よく分かります。守銭奴になれ、といふのとは違ふのです。お金の重要性についてはすべからく幼時から教育すべきでせう。
最後の第5章は「外に出て行くこと。「カネ」の向こう側へ行こうとすること。」
アジアの国々を見てきて感じることが語られます。西原さんは自分で体験したことでないと信用しない人だと思ひます。そんな彼女だからこそ「働けることのしあわせ、働く場所があることのありがたさについて、考えたことがありますか?」の問ひかけも説得力があると申せませう。

本書については大人の感想・書評はいくつか読んだけれど、これから社会へ出る人たちはどう受止めるのでせうね。拒否反応を示すのかなあ...
しかし、本当に真面目な本です。

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みんな日活アクションが好きだった
みんな日活アクションが好きだったみんな日活アクションが好きだった
(1999/06/01)
大下 英治

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みんな日活アクションが好きだった
大下英治【著】
廣済堂出版刊
1999(平成11)年7月発行


先日、井上梅次監督の訃報に接し、『鷲と鷹』『嵐を呼ぶ男』を追悼上映しました。
もつぱら娯楽作品を作り続けた井上監督。古い映画監督がまた一人去つてしまつた。

戦前は剣戟映画を量産した日活ですが、戦時の国策による統合で、大映に吸収されてしまひます。
戦後、1954(昭和29)年、日活は映画の製作を再開しますが、スタッフも俳優も足りません。そこで「引き抜き」を恐れた邦画他社は、あの悪名高き「五社協定」を結ぶのであります。
これにより、日活は独自でスタアを発掘しなければならなくなります。
そこへ救世主として登場したのが石原裕次郎でした。過去にはない全く新しい型の映画スタアとして、人気をさらつたのであります。

裕次郎の人気を決定づけたのが『嵐を呼ぶ男』だといひます。しかしいくら石原裕次郎といへども、彼一人の力で日活を立て直した訳ではない。タアキイこと水の江滝子や、監督井上梅次の貢献は大きいでせう。
何しろこの男性アクション路線が成功したお陰で、のちの小林旭・赤木圭一郎・和田浩治とで構成する「日活ダイヤモンドライン」が完成するのですから。
第一次ダイヤモンドラインの頃が日活の絶頂期と申せませう。それぞれタフガイとかマイトガイなどとニックネームを付けたのも成功要因でせうね。
これに触発されて東宝は「東宝スリー・ガイズ」(佐藤允・夏木陽介・瀬木俊一)、新東宝は「ハンサム・タワーズ」(菅原文太・吉田輝雄・寺島達夫・高宮敬二)を構成しますが、男性アクション路線では日活に敵ひませんでした。

大下英治著『みんな日活アクションが好きだった』は、そんな日活が制作再開をする経緯から、社名を「にっかつ」と改めロマンポルノ制作に移行するまでを活写してゐます。
本当にタイトル通りみんなが好きだつたかはとにかく、確かに「日活アクション」は一つのブランドと化してゐました。これに比肩し得るのは、「東映時代劇」くらゐではないでせうか。
きつと著者大下英治氏もその青春時代、リアルタイムで観た世代ではないでせうか。それにしても大下氏の守備範囲は広い。

「第一幕 日活アクション映画のスターたち」では、ダイヤモンドラインの成立と成熟(和田浩治の離脱、赤木圭一郎の急死があり、新たに宍戸錠・二谷英明がラインに参加)を語り、「第二幕 日活アクション映画を彩る脇役の名優たち」では文字通りバイプレイヤーたちの存在を、「第三幕 日活ニューアクションのスターたち」においては渡哲也・高橋英樹から原田芳雄にいたる次世代のスターを語つてゐます。和泉雅子さんのデビュー時はとても可愛かつたのですよ...余計なことでした。

現在、これらの作品群は、主だつたものはソフト化されてゐるし、「チャンネルNECO」などのCS放送でかなりの日活作品が鑑賞できます。全く良い時代ですなあ。

この列車がすごい
この列車がすごい (メディアファクトリーの新書)この列車がすごい (メディアファクトリーの新書)
(2010/01)
川島 令三、横見 浩彦 他

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この列車がすごい
川島令三/横見浩彦【著】
メディアファクトリー刊
2010(平成22)年1月発行


鉄道アナリストの川島令三氏と、全駅下車達成者の横見浩彦氏。
川島氏は『全国鉄道事情大研究』シリーズなど、硬派の評論で知られる論客。
鉄道の乗客を増やすにはどうすれば良いかの提言を熱つぽく語る人です。
一方の横見氏は国内の鉄道全駅(その数1万駅!)に下車したことで知られ、マンガ『鉄子の旅』の案内人をつとめた人。
古い駅舎が大好きで、古い列車や路線を愛してやまぬ人物であります。
こんな二人が対談して、果たして話がかみ合ふだらうか? といふ興味がまづあります。

観光列車・寝台列車・私鉄特急・通勤列車・速い列車・乗っておきたい列車・路面電車・記憶に残る列車・鉄道ではない列車の9章からなり、それぞれの分野で「すごい列車」をとりあげてゐます。
正直たいしてすごくないぢやないかと思ふ列車もありますが、まあ良いでせう。

横見さんはあまり私鉄特急には興味がない。一方川島さんは関西人だから昔から私鉄特急に馴染んでゐる。JRと私鉄、どちらがすごいかで揉めてゐます。大人気ないところが面白い。
また、川島さんは速い列車が好きだが横見さんは鈍行とか夜行の座席車が好み。川島さんは「私には絶対無理だなあ」といなす。
それぞれの得意分野・興味のない分野がはつきりしてゐます。
改めて鉄道趣味の幅広さが分かります。ま、私は何でも好きですが。故・神風正一さんの言ふ「なまくら四つ」でせうか。ある一分野を極めるのではなく、のんべんだらりと鉄道と付き合つてゐます。

なほ本書は純粋な新刊ではなく、2008年に同じメディアファクトリーから出た『すごい列車!』を加筆改題のうへ、再刊されたものです。
では御無礼します。

サキ短編集
サキ短編集 (新潮文庫)サキ短編集 (新潮文庫)
(1958/03/18)
サキ

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サキ短編集
サキ【著】
中村能三【訳】
新潮社(新潮文庫)刊
1958(昭和33)年2月発行


これは面白い短編集であります。
どのやうに面白いかといふと、実にいやらしく、皮肉めいて、素直ではなく、とぼけてゐて、常に話者が冷笑を浮かべて語つてゐるやうな面白さです。

サキといふ人は、19世紀の終盤から20世紀始めにかけて活躍したイギリスの短編小説家であります。
翻訳者中村能三氏が文庫版あとがき(1958年の文章)で、英米では大層親しまれてゐるこの作家が、日本ではほとんど紹介されてゐないのは不思議であると語つてゐます。
このつぶやきから半世紀が経ち、私の記憶するところではこの新潮文庫版以外にも、岩波文庫や講談社文庫・ちくま文庫などでその作品が紹介されてゐます。
それならサキはブレイクしたのかといふと、さうでもなささうです。なぜでせうね。こんなに面白いのに。
たぶんサキの愛読者は、サキがメジャーになることを望んでゐないでせう。「自分だけの存在」にしてをきたいのかも。私もさうですから。もつと皆に魅力を知つてもらひたい、しかし有名になつて欲しくない。ああ。

短編21編が収録されてゐます。もはやコントと呼ぶ方が適してゐる作品もありますね。
それぞれに最後にオチがあるので、内容の紹介はできないけれど、私の好みは「二十日鼠」(これを冒頭にもつてきたのは正解。私は笑ひ転げた)「肥った牡牛」「運命」「開いた窓」「宵闇」「十三人目」「家庭」「七つのクリイム壷」など。しかしそれ以外も好い。ようするに全て好いのであります。

翻訳の中村能三氏は名訳者といはれた人。田中小実昌さんは敬意を込めて「ノウゾーさん」と呼んでゐました。
...といふ偉い人をつかまへて書くのは気が引けますが、少し読みにくい訳文です。読点の位置がをかしい文が多いと思ひました。
また「マアチン・ストウナア」とか「ハイド・パアク・コオナア」とか、この人は長音記号を知らぬのかと疑義をはさむくらゐ独特の表記をしますね。好きだけど。
まあ、あらゆる意味で楽しめる一冊と申せませう。

Japanese Film1955-1964 昭和30年代のヒット・シリーズ
Japanese Film 1955‐64―昭和30年代のヒットシリーズ〈上〉 (Neko cinema book―Japanese series)Japanese Film 1955‐64―昭和30年代のヒットシリーズ〈上〉 (Neko cinema book―Japanese series)
(1999/04)
不明

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Japanese Film1955-64 昭和30年代のヒットシリーズ
ブラックアンドブルー【編】
ネコ・パブリッシング刊
1999(平成11)年4月発行


昭和30年代は、まさに日本映画の黄金期。
ここに登場する映画たちは、ひたすら娯楽映画です。評論家からは見向きもされぬ、それを語ることすら恥づかしいとされるやうな、庶民の映画であります。『キネマ旬報』みたいな雑誌からは、完全黙殺されるやうな。
従つて、本書には黒澤も小津も成瀬も登場しません。
例外は「松竹ヌーベルバーグ」路線ですかね。これはシリーズではなく映画運動と称されるもので、本書の中では浮いてゐます。ま、別にいいですけど。

2冊からなつてゐて、おほむね年代順にシリーズを紹介してゐます。昭和21年に始まつた「多良尾伴内」シリーズを筆頭に、昭和43年の「忘れるものか」で終焉を迎へる「日活ムードアクション」まで、57のシリーズ・路線が取上げられてゐます。誰もが知つてゐる銭形平次(長谷川一夫だよ)・旗本退屈男(ぷはつ)・ゴジラ(主役は怪獣)・渡り鳥(むろんマイトガイ小林旭です)・若大将(幸せだなあ)・座頭市(嫌な渡世だ)・無責任(スラスラスイスイスイ)・眠狂四郎(雷蔵さま)等が次々に登場、名前を挙げるだけでわくわくするのであります。

また、論文なども読ませます。
萩原克治氏の「昭和30年代と、その時代の日本映画」は、昭和の63年間といふ時間を人間の一生になぞらへて論じます。

昭和30年代の映画には「確かな未来」がある。平成の社会には失われた未来がある。この意味で当時の映画は娯楽として現在でも有効だし、未来が不安であり続ける限り、見直す価値があるのだと思う
過去にこそ未来が存在した、ということは逆説的だが矛盾ではない。人の一生を考えてみればそれは判る。自らの能力の限界をしらずにいる幼年時代に始まり、歳を重ねてすこしずつ自我に目覚めるごとに限界を知って、人は妥協を覚えてゆく。それは、未来への可能性を失ってゆく過程でもある

佐藤利明氏は当時の映画会社の解説・年毎の映画界の概観をコムパクトに、初心者にも優しく書いてゐます。
これらを読めば邦画6社(当時の松竹・東宝・大映・東映・日活・新東宝)のおほよその歴史も分かつてしまふのです。
主だつた俳優のプロフィールも掲載され、一丁昔の邦画でも観るか!と考へる人には最高のガイドブックでもあります。
本書を読んで黄金期の日本映画を観る人が増えたら好いなあ、と勘考する私でした。

出家とその弟子
出家とその弟子 (新潮文庫)出家とその弟子 (新潮文庫)
(1986/11/14)
倉田 百三

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出家とその弟子
倉田百三【著】
新潮社(新潮文庫)刊
1949(昭和24)年11月発行
2003(平成15)年6月改版


浄土真宗の開祖とされる親鸞聖人の話。
歎異抄の教へを戯曲化したものださうです。
我が家も元来浄土真宗ですが、私は全くお祈りはしてゐません。

ある吹雪の夜、親鸞と弟子二人が一夜の宿を求めて、一軒の屋敷を訪れます。
しかし屋敷の主、日野左衛門はにべもなく断るのです。わしは坊さんが嫌ひだでよー、と。
その夜、左衛門は恐ろしい夢にうなされ、目が覚めます。反省して、まだ外にゐた3人に非礼を詫び、改めて家で泊つてもらふのでした。左衛門は、本来善良な心の持ち主なのであります。
左衛門の息子が当時11歳の松若といひ、これが後年出家して、親鸞の弟子となります。

第三幕で、親鸞の息子善鸞が登場します。この人は南無阿弥陀仏の祈りを信用せず、遊女と遊び呆けてゐます。父親の親鸞からは勘当されてゐる身でございます。本当は純な人なのですが、周囲の目は冷たい。
唯円は数少ない理解者で、何かと彼を擁護しますが、唯円自身もかえでといふ遊女と心を通はせるやうになるのです。
恋は盲目と申しますが、唯円は周囲が見えなくなり、先輩僧たちから吊るし上げられるのです。
そして遂に親鸞聖人からも...唯円とかえでに将来はあるのか?

戯曲といふ形式をとつてゐるので、親鸞聖人の教へがよく分かります。
「人間は善くなりきる事は出来ません。絶対に他の生命を損じない事は出来ません」
「善くならなくては極楽に行けないのならもう望みはありません。しかし私は悪くても、別な法則で極楽参りがさせて戴けると信じているのです。それは愛です。赦しです」
「これまでの出家は善行で極楽参りが出来ると教えました。私はもはやそれを信じません。それなら私は地獄です。しかし仏様は私たちを悪いままで助けて下さいます。罪を赦して下さいます。それが仏様の愛です」

若さが迸る一冊。
青春文学と呼ばれてゐますが、もちろんどの世代が読んでも得られる感動は同じでせう。
抹香臭いこともありません。直球で我々の心にズドン!と来ますよ。

伊福部昭 音楽家の誕生
伊福部昭 音楽家の誕生伊福部昭 音楽家の誕生
(1997/05)
木部 与巴仁

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伊福部昭 音楽家の誕生
木部与巴仁【著】
新潮社刊
1997(平成9)年5月発行


2月8日は伊福部昭氏の命日であります。
あの衝撃の日から既に4年が経過しました。時蠅は矢を好む。
本書の著者・木部与巴仁さんは、何としても伊福部昭といふ音楽家を本に書きたいと思ひ、本人へのインタビューをはじめ、さまざまな取材を活発に行つてきました。
そして何と13年といふ歳月をかけて、1997年、漸く日の目を見たのが、この『伊福部昭 音楽家の誕生』なのです。
400ページを越える堂堂たる評伝が完成したのであります。文字通りの労作。

伊福部昭は、1914(大正3)年、北海道釧路に誕生します。
少年期を十勝平野にある音更村といふところで過ごし、そこでアイヌの人たちと交流がありました。後年彼の創る音楽に影響を与へたに相違ありません。
伊福部一家は、侵略者としてのシャモ(和人)に属するのですが、父利三氏(音更村村長)の人徳からか、アイヌ人から反感を買はずにすんださうです。

後に進学のため札幌に出ますが、ここで『日本組曲』や『日本狂詩曲』を作曲してゐます。後者は、チェレプニン賞を受賞し、これが音楽活動のスタートとされてゐます。時に21歳。
これらは、当時の音楽的常識を無視した作法なのださうです。それに関して本人の聞き書き中に、印象的な言葉があります。『日本組曲』の「七夕」といふ曲について次のやうに語ります。

「当時、和声学の規則では、平行五度は駄目だということになっていまして。和声が完全五度のままで進むのは気持ち悪く聞こえる、音楽になってないというわけです。それなら、自分は全部平行五度で行ってやろうと思って書いたんです。
北海道などで暮らしておりますと、自然の中で生きていくためには絶対まもらなければならない掟と、まあ、これは破ってもいいんじゃないかということの見境が、ずいぶん早くからつきます。平行五度を禁ずるというような、つまらない掟は守らない、ということです」

これぞ大人の態度だと思ひます。その意味で昔の日本人は大人だつたのでせう。
従前の音楽常識を打ち破り、注目を集めてゆくのです...

ところで以前私は、伊福部氏のCDのほとんどを所持してゐました。ある日家に泥棒が入り、なぜかCDだけすべて盗まれてしまつたのです。900枚くらい。当然伊福部昭も含まれてゐました。
PCとかデジカメとかはその他金目のものはそのままで、CDソフトだけ持つて行く変な泥棒でした。
(後日、岐阜県大垣市の中古書店にて、それらが販売されてゐたのを発見して驚愕したのであります)
伊福部昭のもので入手可能なものはまた買ひ直しましたが、すでに廃盤になつてゐるのも結構ありました。悔しくて仕方がないのであります。

話がそれました。
本書の帯には「この巨きな作曲家について無性に語りたい!」とあります。
木部氏がその巨きさに挑み、四つに組んだ快作と申せませう。
今後もし余人がまた伊福部評伝をものすることがあつても、出発点は本書になるでせう。
では、ご無礼します。

日本語という外国語
日本語という外国語 (講談社現代新書)日本語という外国語 (講談社現代新書)
(2009/08/19)
荒川 洋平

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日本語という外国語
荒川洋平【著】
講談社(講談社現代新書)刊
2009(平成21)年8月発行


「日本語を外から眺める」といふ、今までになかつた切り口の本であります。面白い。
6つの章から成つてゐます。それぞれ見てみませう。

第1章「日本語はどんな外国語か?」
『日本人の知らない日本語』のところにも書きましたが、多数の日本人は、日本語を特別難しい言語であると思ひたがる傾向がありますね。本書でも指摘がありました。難解に感じられる理由を単語数の多さ、敬語(待遇表現、といふものださうです)、表記の複雑さの3点を挙げてゐます。日本語は世界で9番目に多い話し手がゐるさうです。驚きですね。

第2章「日本語の読み書きは難しい?」
日本語には正書法といふものは定められてゐないのですね。確かに同じ文章を感じ交りで書いても仮名ばかりを駆使しても通用します。この辺が外国人には「はつきりしてくれ!」と言ひたくなるところでせう。
「コノテーション」といふ概念は今まで知りませんでした。以前スポーツ紙の記事で、同じ「酒を飲んだ」行為が、白鵬の場合は「勝利の美酒の余韻に浸る」と表現されたのに対し、朝青龍には「ヤケ酒の二日酔」と書かれてゐました。これは関係ありませんか。

第3章「日本語の音はこう聞こえる」
「ピーナッツせんべい」は何拍か?といふ問題。絶対5拍ですよ、と私は思つたのですが、9拍でも正解なのださうです。七五調の散文や詩に慣れてゐる人は、きつと5拍と答へると思ふのですが。わざわざピーナッツせんべいの写真まで添へてありますが、問題のヒントにはなりませんね。洒落ツ気があります。
「水」といふだけの台詞でも、イントネーションの相違で全く違ふ意味合ひになる。なるほど、この辺は日本語を外から眺める姿勢がないと気付かないものです。

第4章「外国語として日本語文法を眺めてみると」
いよいよ佳境に入つて行きます。
国文法と日本語教育文法は、優劣はなくそれぞれの目的が違ふと著者は語ります。納得。私も知り合ひの中国人に、生意気にも日本語を教へたりしますが(ほとんど雑談)、テキストの内容は明らかに日本人が学校で習ふ国文法とは違ふのであります(ちなみに凡人社のを駆使してゐます)。最初はですます調で動詞の変化をするのが違和感があつたのですが、すぐに「合理的だ」と思ひました。「形容詞+です」はをかしいのでは?とも考へた時期もありましたが、今は慣れてしまつた。

第5章「日本語表現のゆたかさを考える」
更に盛り上がつてまいりました。
「山田選手はかなり練習させられていたらしいよ」といふ一文を解析します。テンス(時制)・アスペクト(相)・ボイス(態)・ムード(法)と連打でたたみ掛けます。この辺りは快感すら覚えますが、読む速度が遅くなります。先生、少し待つてくださいといふ感じ。普段何気なく使ふ私たちの日本語には、実にさまざまな表現があるのだと思ふと、嬉しくなります。

そして最終章・第6章「日本語教育の世界へ」
日本語だけを使つて日本語を教へる「直説法」。コツがいろいろ書かれてゐますが、実際には中中骨でせうね。そもそも私は中国人に日本語を教へる必要性から、中国語を学び始めたのですから。しかし中国の日本語教室の授業風景を見学した時は、中国人の日本語講師がすべて日本語で講義をしてゐました。熱心な中国人学習者に感動したのであります。

言葉は一種の道具でせう。即ち正しい使ひ方をしないと、効用は期待できません。著者の荒川洋平氏は商売道具の日本語に対し、敬意といふか愛情をもつて接してゐるやうに思はれます。言葉について語るのは楽しいことですが、本書はさういつた暖かさも感じる一冊と申せませう。

有吉佐和子の中国レポート
有吉佐和子の中国レポート (1979年)有吉佐和子の中国レポート (1979年)
(1979/03)
有吉 佐和子

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有吉佐和子の中国レポート
有吉佐和子【著】
新潮社刊
1979(昭和54)年3月発行


有吉佐和子さんの5度目の訪中記であります。
時は今から32年前、1978年のこと。文革の悪夢さめやらぬ時代、日中国交正常化からまだ数年の頃です。
目的は「人民公社に泊り込んで、農村の人と一緒に生活する」ことなのですが、現地の中国人たちは中中その意図を理解してくれません。「不便ですよ」とか「不衛生です」などと言つて取り合ひません。有吉さんを観光客扱ひするかのやうです。
しかし、現地の人も頑なですが、有吉さんはそれを上回る強引さで、痛快なほどです。相手は迷惑でせうが。

最初は農村へ入れず、文革中に迫害・拘束されてゐて最近「出てきた」人たちとの再会が続きます。
作家・老舎の未亡人との対面では、老舎の惨い最期が語られ、怒りを感じました。この話が事実なら、老舎は明らかに殺害されてゐるのですが、今でも公式には自殺とされてゐるのです。証拠隠滅のためか、死体はただちに火葬されたさうです。「あの頃は滅茶苦茶だったのです、何もかも」(老舎の長女の言葉)

さて、偶然中国に来てゐた音楽家・小沢征爾氏とのひとときがあつたりして、その後待望の人民公社に入るわけです。ところが、これがまたあまりにゆつたりしたスケジュールで、有吉さんはイライラのし通し。早く出発しませう、いや休んでゐてくださいの繰り返しが今後も続くのであります。

各地の人民公社を回るうちに、当初の目的「三同生活(農民と一緒に寝て、食べて、働く)」から離れて、肥料・農薬問題に深入りすることになります。何しろ『複合汚染』の著者ですから、中国の農民も驚く知識を有するといふことで、各地で講演をするはめになります。しかしその反応は素晴しいものでした。

当初の目的とはいささか違う内容の旅になつたやうですが、最後は有吉さんも充実感を感じたのではないでせうか。
通訳の張光珮さんの存在も大きいですね。何しろ千人の教へ子を持つといふ北京大学の先生です。その彼女が有吉さんの話に感化されて、お弟子さんにも伝へるといふ。

講演会のメモは、みんな取ってあります。私は有吉さんと全く同じように話すことが出来ます
大丈夫よ。一つも間違えず話しますから、心配しないで下さい。私の教え子は、みんな優秀、本当よ。だから、必ず理解します。安心して下さい

こんな人が通訳になつた時点で、旅の成功は半分約束されたやうなものでせうね。