源氏川苦心の快楽書肆
古い本を探しては読みふけつてゐます。よければお付き合ひくださいな。
河童・或阿呆の一生
河童・或阿呆の一生 (新潮文庫)河童・或阿呆の一生 (新潮文庫)
(1968/12/15)
芥川 龍之介

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河童・或阿呆の一生
芥川龍之介【著】
新潮社(新潮文庫)刊
1968(昭和43)年12月発行
1989(平成元)年9月改版


生れて初めて読んだ芥川作品は、「羅生門」でも「蜘蛛の糸」でも「地獄変」でもなく、「或阿呆の一生」でした。これはあまり正統的ではないかもしれません。
中学生当時、我が家に元元有つた『新潮現代日本文学全集』の「芥川龍之介」の巻を開いたら、「或阿呆の一生」なる作品が目に飛び込んで来たのであります。タイトルからしてユウモラスな愛すべき阿呆の話かと思つたら、これといつたストオリイのない、支離滅裂な作品であつた。
「微苦笑王子」久米正雄に宛てた文章が死を予感させ、胸騒ぎを誘発します。もちろん我我はその結末をすでに知つてゐる訳ですが...アフォリズムともいへず、やはり叫びとでも申せませうか。

「河童」は、精神病患者の話として語られます。人間の世界以上に人間的な河童の世界。当時の世相を風刺するといふよりも、作者の極限に達した苛立ちが感じられるのであります。
「大導寺信輔の半生」の「只頭ばかり大きい」少年は、まさに芥川自身。幼時の写真を見ると、確かに不気味なほど頭部がでかい。既製品の帽子では頭に入らなかつたといひます。相当コムプレックスを感じてゐたのでせう。
「歯車」ではもはや救ひが見えません。芥川はドッペルゲンガーを見たのか。自身の生霊か。歯車とは例へば「虹男」(1949年のパートカラーの映画)みたいなものでせうかね。違ふか。

他に「玄鶴山房」「蜃気楼」を収む。かうしてみると、とても芥川龍之介の入門篇としては薦められぬ作品集であります。が、これも芥川が遺した貴重な芸術品と申せませう。

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左腕の誇り
左腕の誇り―江夏豊自伝 (新潮文庫)左腕の誇り―江夏豊自伝 (新潮文庫)
(2010/02/26)
江夏 豊

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左腕の誇り―江夏豊自伝
江夏豊【著】
波多野勝【構成】
新潮社(新潮文庫)刊
2010(平成22)年2月発行


プロ野球を見始めた頃、江夏豊はすでに阪神タイガースの大エースと呼ばれる存在でした。まだ後年ほど腹も出てゐなくて、凄味を感じたものです。「不世出の大投手」といはれることも多いですが、沢村栄治もスタルヒンも金田正一も稲尾和久も江川卓もさう呼ばれたことがあります。それが全て事実なら逆に不世出ではないといふ矛盾したことになります。どうでもいいけど。

思へばその頃、セントラル・リーグには各球団を代表する大エースがゐたものです。即ち大洋の平松・讀賣の堀内・中日の星野仙一強気の勝負・ヤクルトの松岡・広島東洋の外木場・そして阪神の江夏豊。
無論パシフィック・リーグにも阪急(現オリックス)の山田久志や太平洋クラブ(現西武)の東尾修など、球史に残る怪物投手がゐた訳ですが、当時は完全にセリーグ(といふか讀賣)中心の報道体制だつたので、子供だつたわたくしには印象が薄かつたのであります。

この『左腕の誇り』は、江夏豊自伝といふサブタイトルが付いてゐますが、波多野勝氏によるインタビューを構成した聞き書きの形になつとります。
以前から江夏豊といふ人物は、そのイメエヂとは違ひ、チームの事情を優先し、謙虚に人の話を聞く耳を持ち、自分を殺すことのできる忍耐強い野球人だと思つてゐましたが、本書を読むとさらにその意を強くするのであります。さうでなければ、阪神タイガースで彼の野球人生は終つてゐたのではないでせうか。
それにしても五体満足で投げられたシーズンがプロ入り1年目と2年目だけだとは。今のプロ野球のやうに間隔を十分空けて登板してゐれば...とも思ひますがこればかりは仕方が無い。

といふ訳でまことに読み応へのある一冊でございます。個人的には、江夏豊が大信田礼子さんとお付き合ひしてゐたことがある、といふ情報は知らなかつたので驚きました。本筋には関係ないけれど。

ドン・ジュアン
ドン・ジュアン (岩波文庫)ドン・ジュアン (岩波文庫)
(1975/01)
モリエール

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ドン・ジュアン
モリエール【著】
鈴木力衛【訳】
岩波書店(岩波文庫)刊
1952(昭和27)年1月発行
1975(昭和50)年12月改版

学生の頃は仏文科に在籍してゐたため、当時は片端からフランスものを読んだのであります。その一冊。
並び称されたコルネイユ、ラシーヌは、少なくとも日本ではあまり語られなくなつたのに対し、このモリエールはまだ読まれてゐるやうです。

有名なドン・ジュアンのお話。元元はイタリアではなくスペインが発祥の地ださうです。
モリエールがドン・ジュアンを題材に芝居を書いたのは、もつぱら商売上の事情のやうであります。別段自らの文学的創造のためといふわけではなく、当時のモリエール一座の金勘定のために一気に書かれたものらしい。これはびつくり。さういはれてみると、書き方や話の展開が少し粗く感じます。いはれなければ気にしないけれど。
良くいへばスパッと分かりやすく男性的である。三船敏郎の殺陣と同じですな。

そしてドン・ジュアンの従僕であるスガナレルがよろしい。何かと博識をひけらかし俗物ぶりを発揮してゐます。当時の風潮や時事問題を揶揄したと思はれるせりふもあり、時に毒を含んでゐます。『タルチュフ』が上映禁止になつた腹いせでせうか。
先入観を持たずに読めば、驚くほど新しい内容に「ほほう」と声が出るところであります。

図解 新説全国寝台列車未来予想図
<図解>新説 全国寝台列車未来予想図――ブルートレイン「銀河」廃止の本当の理由<図解>新説 全国寝台列車未来予想図――ブルートレイン「銀河」廃止の本当の理由
(2008/03/14)
川島 令三

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図解 新説全国寝台列車未来予想図
川島令三【著】
講談社刊
2008(平成20)年3月発行

来年(2012年)3月のダイヤ改正にて、またもや夜行列車が削減されることが判明しました。もうどうにでもなれと云ふ感じです。今度はいはゆる日本海縦貫線を走る寝台特急「日本海」と急行「きたぐに」が廃止されるさうです。
両列車とも思ひ出深いですが、特に「日本海」にはお世話になりました。愛知県在住のわたくしとしては、名古屋から乗れないので新幹線-しらさぎと乗り継ぎ、敦賀で「日本海」を捉まへたものであります。特にシングルデラックスと称するA個室があつた時代はほぼ毎年乗つてゐたやうな気がします。あれに乗つて一人宴会をするのは人生最高の愉しみとさへ感じ、こんなに幸せでいいのかね、と思ひました。わしはこの瞬間のために日々生きてゐるのだなあ、とね。

などと回顧してゐても今や虚しいので、川島令三著『図解 新説 全国寝台列車未来予想図』を開いてみます。
少し古い内容で、本書発売後に「はやぶさ」「富士」「北陸」が廃止されてゐます。
書名には「未来予想図」とありますが、第1章-第4章までは今までの歴史と現状の概観であり、肝心の予測と展望は第5章-第6章のみで、せいぜい全体の3分の1程度でせうか。書名と内容に乖離がございます。もつとも川島氏の本にはよくあることですが。また、「図解」を名乗る割には図解が少ないのであります。出版社の命名かもしれませんが、書名はもつと良く考へた方が良いのでは。

サブタイトルにもある、「銀河」廃止の本当の理由とは、畢竟JR東海に機関車の運転士が不足してゐることだと指摘します。それにも関連して、著者は新しい寝台「電車」の開発を提言してゐます。これは本当の意味の「電車」ですよ(鉄道車両を見れば何でも「電車」と呼称する昨今なので)。しかし3月11日以降、電化万能に疑問を呈する風潮になつてまいりましたがね。
その際の新造電車を使用する列車の編成表も披露されてゐます。「クイネテ」なんて面白いけれど実現は難しいでせうね。
国鉄が分割された時点で、すでに長距離寝台列車は全廃するのが暗黙の了解だつたのかも知れません。残るのは「カシオペア」「サンライズ」のみになるのでせうか。

紫苑物語
紫苑物語 (新潮文庫)紫苑物語 (新潮文庫)
(1957)
石川 淳

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紫苑物語
石川淳【著】
新潮社(新潮文庫)刊
1957(昭和32)年7月発行
1970(昭和45)年7月改版


表題作のほかに「鷹」「善財」の二作品も併録。中篇小説三篇が愉しめるのであります。
「紫苑物語」は、若き国の守(かみ)が主人公。舞台は王朝時代。守は歌の才能を持ちながら、父によつてその作品に手を加へられたことから、歌をやめてしまひます。そして憑かれたやうに狩に出かけ、弓を引く毎日であります。
血を覚えた守の弓は、家人たちをも貫くやうになり、庭の、その血を吸つた場所に守は紫苑を植ゑさせるのでした...
引き締まつた文章。書き出し部分から陶酔させます。きつとかういふのが名文と呼ばれるのでせう。快適なリヅムと心地良い旋律でうつとりするのであります。必読。

「鷹」は、専売公社を首になつた国助といふ男の物語。どうやら戦後のドサクサ混乱時代のやうです。国助が仕事を探してゐると、偶然会つたKといふ男からEなる男を紹介されます。Eに会ふと、たばこを指定した場所へ届けて、代金を回収する仕事だといふ。しかしこのたばこは普通のたばこではない。どうやらヤバイ仕事らしうございます。
また、Kから渡された「明日語文法」「明日語辞書」の二冊。明日語とは何か。明日語で書かれた新聞を解読すると、信じられぬ事が書いてあつたのであります...

最後は「善財」。これまた終戦直後の世相が窺はれます。焼跡の東京へ戻つた21歳の若者・筧宗吉くんの、うつろな魂の遍歴とでも申せませうか。思慕してゐた女性に再会できても、宗吉くんはまるで自ら選択したかのやうに、破滅へ向かふのであります。

三篇とも主人公はそれなりに行動しますが、いづれも蟻地獄へ突入するかのやうに、その先には救ひはありません。あの戦争で、反省も総括もしなかつた人たちを目の当りにした作者の叫びも聞える気がします。

※講談社文芸文庫からも同名の本が出てゐますが、併録作品が違ふので注意されたし。ま、いづれにしても読んで損はございません。

電力と国家
電力と国家 (集英社新書)電力と国家 (集英社新書)
(2011/10/14)
佐高 信

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電力と国家
佐高信【著】
集英社(集英社新書)刊
2011(平成23)年10月発行

福島の原発事故以来、東京電力(といふか電力会社)といふものがどんな組織であつたのか、国民の前に明らかになつてきてゐます。
なぜかういふことになつてしまつたのか、そもそも誰が悪いのか。本書では、それを日本における電力事情の歴史を振り返ることで明らかにしてゐます。

現状の問題点を挙げる発言はいろいろな場所でいろいろな人が発信してゐますが、佐高信氏は今日に至る歴史的経緯を述べてくれます。
電力を国家管理から死守してきた「電力の鬼」松永安左ェ門とその後継者たる木川田一隆の戦ひに多くを費やし、断片的ながら「松永安左ェ門伝」の様相さへ呈してゐます。

「国家対電力」といふ緊張関係を失つたのは、木川田一隆の薫陶を受けたとされる平岩外四からだと佐高氏は指摘します。国家に介入させずの原則を崩し、当時の通産省と通じるやうになります。原子力発電の主導権を通産省に明け渡したといふことですな。今回噴出した諸問題は、平岩外四の方向転換以降に端を発してゐると。実際には様様な要因が重なつてゐるのでせうが。
佐高氏はいつも、個人名を出すのが特徴。「東電が悪い」「民主党が悪い」などと組織名で批判しても詮無いといふことでせう。実際に行動を起こすのは組織や建物ではなく、個人であります。

もはや既存の電力会社には自浄能力はありますまい。しかし巻末で佐高氏はかすかな希望を感じとつてゐます。新たに「中央対地方」(この用語には抵抗を示す人も多いでせうが)の対立軸が出来つつあると。知事を中心とした地方が連携をとることが出来ればいいのですがね...

僕らのウルトラマンA
僕らのウルトラマンA(エース) (タツミムック―検証・第2次ウルトラブーム)僕らのウルトラマンA(エース) (タツミムック―検証・第2次ウルトラブーム)
(2000/07)
円谷プロダクション

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僕らのウルトラマンA
円谷プロダクション【監修】
辰巳出版(タツミムック)刊
2000(平成12)7月発行


脚本家の市川森一さんが、まさかこんなに早く天に召されるとは。哀悼の意を表するものであります。
市川さんを紹介する履歴として、報道では代表作のひとつに「ウルトラセブン」を挙げるメディアが多かつたやうに思ひますが、若干違和感を感じました。
確かに市川さんは「セブン」から参加してゐますが、この時期は金城哲夫といふ絶対的存在がメインライターで、それに次ぐ人は多分上原正三氏でせう。市川森一さんは三番手くらゐで、金城が直球をずどんと投げるのに対し、変化球で彩りを添へたと申せませうか。

ウルトラシリーズで市川さんがメインで活躍したといへば、やはりこのA(エース)ではないでせうか。脚本を担当した話数こそ多くはありませんが、企画段階から参加し、超獣の設定とか男女合体変身などのアイデアを実現させたのであります。そして最終回の、子供たちへの「私の最後の願い」...個人的には新マン最終回の「ウルトラ5つの誓い」よりもぐつとくるメッセージなのです。

やさしさを失わないでくれ。
弱い者をいたわり、互いに助け合い
どこの国の人たちとも
友達になろうとする気持ちを失わないでくれ。
たとえ、その気持ちが何百回裏切られようと......
(最終回より)

本書は、そんな「ウルトラマンA」を丸ごと味はふ一冊。
「A」を少年時代にリーアルタイムで観てゐたライターたちが、熱く論じてゐます。
第一期に比べて第二期ウルトラは「新マン」以外の評価が低いのですが、実は「A」が扱ふテエマはそれまでのどのシリーズよりも重い。それなのに失敗作の烙印を押されてしまふのはなぜなのか、本書を読めばだいたい分かるのですが。
最終回のシナリオでは、市川さんはAを故郷の星へ帰らせたのではないさうです。Aは(ウルトラの)星そのものになつたと。市川さんも星になつたと思ひたい。
といふ訳で、今回は市川森一氏の追悼の回でした。ご冥福をお祈りします。

日本の文章
日本の文章 (講談社学術文庫)日本の文章 (講談社学術文庫)
(1984/08)
外山 滋比古

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日本の文章
外山滋比古【著】
講談社(講談社学術文庫)刊
1984(昭和59)年8月発行


日本の文章。実に壮大かつ捉へどころのない茫洋としたタイトルであります。
本書をちらちらとのぞいてみますと、一つの章がまことに短い。何かの雑誌に連載されたコラム的な文章でせうか。
著者によりますと、文章の書き方を説いた本ではなく、われわれの文章がどのやうなものであるかを考へたものであるさうです。

文章といえば、文字だけの言葉、声を失った表現を考えがちなのが、これまでの日本である。文章も言葉であるから、肉声と縁を切るわけにはいかない。ここでは耳で読む、耳でも読める文章に注意している。そこから新しい日本語のスタイルが生まれるかもしれないと考える」(「まえがき」)

なるほど日本では読書といへば黙読といふ暗黙の了解みたいなものがあつて、音読は子供がするものと決め付けてゐないか。これは明治以降の翻訳文化の悪しき影響であると著書は述べます。
ずばり「耳で読む」といふ短い章があります。たとへば書き上げた文章を推敲する時に、音読してみれば良いらしい。音読することで、リヅムの悪い文章、同じ言葉の繰り返しが多い文章などを撃退出来るのであります。

以上は一例で、さういふ目からウロコ的な提言主張が全部で28章も収められてゐるのです。これらを惜し気もなく一冊にぎゆつと詰め込んだ、まことに贅沢な書物と申せませう。

吾輩は猫である
吾輩は猫である (新潮文庫)吾輩は猫である (新潮文庫)
(2003/06)
夏目 漱石

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吾輩は猫である
夏目漱石【著】
新潮社(新潮文庫)刊
2003(平成15)年6月発行

昨日(12月9日)は夏目漱石の没後95年目に当たる日でした。
この『吾輩は猫である』は、わたくしにとつてたいそう思ひ出深い作品であります。
いはゆる児童書以外で、一般の書籍として初めて買つて貰つたのが本書であつたのです。小学六年生でした。
なぜ『猫』かといふと、当時コーヒーのCMで「吾輩は猫である。うちの主人は寝る前だといふのにコーヒーを飲んでゐる...さうか、カフェイン抜きだから寝る前に飲んでも大丈夫なのか...」といふのがありまして(せりふは正確ではない)、『吾輩は猫である』を読んでみたくなつたからであります。もうすぐ中学生だし、かういふものを読んでも問題あるまい...

実際に読むと、コーヒーは登場しませんでしたが、予想以上の面白さに夢中になつたものであります。影響を受けすぎて、当時は普段の会話の中に意味も無く「アンドレア、デル、サルト」「大和魂!」「タカヂアスターゼ」などのフレイズを挿入させてゐました。

本作は元元第一章のみで完結する短篇として発表されました。それが好評だつたので連載が続き、かかる長篇小説の体をなしてゐる、といふのは有名な話。
したがつてこれといつた物語の筋はございません。映画やアニメでは寒月君と富子の恋愛に重きを置いた演出が多かつたやうな記憶があります。
また、吾輩は犬であるなどのパロディを数多く生んでゐて、その数は数え切れぬほどであります。ちなみに「我が肺は2コである」の駄洒落を最初に活字にしたのはさだまさしさんらしい。

で、本書との付き合ひ方としては、別段大文豪の代表作だからといつて畏まる必要は全くありません。たとへば、①猫の目を通して、当時の社会風俗などが分かつて面白い(同時に、昔も今も変らぬ人間の物悲しさも)。②漱石先生の生活ぶりが窺はれて微笑ましい。③苦沙弥先生の家に集う迷亭君や寒月君との落語調の会話が愉快だ。といつたところでせうか。
書名は知つてゐるが、読んだことはないといふ人が多いらしいので、該当の方は是非読むとよろしからう。と勘考する次第であります。

聞いて、ヴァイオリンの詩
聞いて、ヴァイオリンの詩 (文春文庫)聞いて、ヴァイオリンの詩 (文春文庫)
(2009/07/10)
千住 真理子

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聞いて、ヴァイオリンの詩
千住真理子【著】
文藝春秋(文春文庫)刊
2009(平成21)年7月発行


千住真理子さんはわづか2歳3ヶ月でヴァイオリンを始めました。一般的にヴァイオリンの習ひ始めは早いのださうですが、それにしても早い。
大学時代に一度挫折を経験しますが、あることをきつかけに再びヴァイオリンを手にします。このくだりは感動的な話になつてゐます。

読む前は、人気ヴァイオリニストの気軽な身辺エッセイなのかなと思つてゐましたが、読み進むほどに、おほげさに言へば「自分の存在意義」みたいなものを感じさせるのであります。
わたくしも10代-20代の頃は、お金が欲しいとかモテたいとか、今思ふと刹那的なことばかり考へてゐたやうな気がします。しかしそれなりに年をとりますと、やはりそれ以上に「自分はこの世の中でどれだけ役に立つてゐるのだらう」なんてことを勘考するのであります。せつかく生れたからには、なるべく人の為になる生き方をしたい。
さういふ覚悟あるいは勇気を貰へる書物と申せませう。

といつて、堅苦しい本ではございません。家族との関係や演奏旅行の光景など、素顔を飾ることなく開陳してゐます。個人的には、駅弁を掻き込んでしやつくりが出さうになりお茶を飲む千住真理子さんがチャアミングだと思ひました。
精神的に壁にぶち当たつてゐる、と感じる方には特に一読をお薦めするものであります。
では、ごきげんよう。

ロミオとジュリエット
ロミオとジュリエット (新潮文庫)ロミオとジュリエット (新潮文庫)
(1996/12)
シェイクスピア

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ロミオとジュリエット
ウィリアム・シェイクスピア【著】
中野好夫【訳】
新潮社(新潮文庫)刊
1951(昭和26)年11月発行
1996(平成8)年12月改版


花のヴェローナにていがみ合ふ名家同士、モンタギューとキャピュレット。この犬猿の仲である両家の娘と息子が、あらうことか恋に落ちたのであります。ああ、何といふ運命のいたづら。
キャピュレットの娘ジュリエットは一人バルコニーにて、「おおロミオ、ロミオ、どうして貴方はロミオなの?」といふ有名なセリフを吐きます(本書の中野好夫訳では、更に大時代な言ひまはし)。
このセリフだけ見て「何だ、この娘は馬鹿なのか?」とつぶやきたくなるかも知れませんが、要するに「なぜ貴方はよりによつて、敵対するモンタギュー家のロミオなのか」といふことですね。冷静に粗筋だけ見ると「有り得んよ」などと言ひたくなるところですが、読み進むうちに物語にのめり込み、涙するのであります。恋愛悲劇の古典として、今後も末永く読み継がれると思はれます。

ところで新潮文庫の沙翁作品は、ほぼ福田恆存氏の翻訳で統一されてゐますが、この『ロミオとジュリエット』のみ中野好夫氏の翻訳。「注」などで、いかに自分は苦労して訳したかを自慢してゐます。苦労したけど、どうです、名訳だらう、さう言つてくれよと行間から読み取れます。
楽屋裏を披露しなければ理解できぬ邦訳はちと辛いのであります。地口や駄洒落の翻訳はまことに難しい。俗語卑語も、原文に使用されてゐるなら当然訳語もそれに相当するものを駆使するのは当然でございます。しかしその時の流行語を使つてしまふと、歴史的審判に耐へられないでせう。「アチャラでは」とか。福田氏の翻訳に差替ることは出来ないものでせうか。
ま、いいけど。

心臓抜き
心臓抜き (ハヤカワepi文庫)心臓抜き (ハヤカワepi文庫)
(2001/05)
ボリス ヴィアン

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心臓抜き
ボリス・ヴィアン【著】
滝田文彦【訳】
早川書房刊
2001(平成13)年5月発行

ボリス・ヴィアン最後の長篇小説であります。
以前の作品にも増して厭世観漂ふ世界。しかし読後感は重たくない。不思議であります。強いて言へば昔のエゲツナイ新東宝映画を観終つた感じですかな。

一応ジャックモールといふ精神科医が主人公の形をとつてゐますが、とても読者が感情移入できる雰囲気ではありません。尚ジャックモールのモール(仏語mort)は死を連想させて不吉であります。
ジャックモールは精神分析の実験が目的で、辺鄙な村までやつて来ます。しかし時空のをかしいこの村では、いたづらに自分の精神を破壊させるのみでありました。

物語らしい筋はあるにはありますが、本作ではその意味は小さいようです。人を喰つた会話にニヤニヤしながら、知らぬ間に読者もジャックモール同様、混迷の世界に引き込まれてゆくのです。

また、タイトルの『心臓抜き』とは、そもそも何か。ヴィアンの読者ならば、『日々の泡』(『うたかたの日々』の邦題もあり)の中で、ジャン・ソル・パルトル(ジャン・ポール・サルトルのもぢり)を殺害する道具として記憶してゐることでせう。
なので本書を読みながら「いつ心臓抜きが登場して、誰に対して使はれるのだらう」と思つてゐると、結局最後まで現れないのでした。どういふこと?
この小説自体が読者の心臓を抜く毒なのだよ、といふことでせうか。ま、詮索しても意味がないのがボリス・ヴィアンですがね。

時刻表昭和史
増補版 時刻表昭和史 (角川文庫)増補版 時刻表昭和史 (角川文庫)
(2001/06)
宮脇 俊三

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増補版 時刻表昭和史
宮脇俊三【著】
角川書店(角川文庫)刊
2001(平成13)年6月発行

宮脇俊三さんは自著の宣伝めいた発言をほとんどしないのですが、本書は例外に属するやうです。特に若い人に読んでもらひたい、と宮脇さんとしては特別に思ひ入れのある作品ださうです。初版の「あとがき」には、かう書かれてゐます。

駅々に貼られた旅客誘致のポスター、ホームに上れば各種の駅弁が装いをこらして積んである。冷房のきいた車内、切符を持たずに乗っても愛想よく車内補充券を発行してくれる車掌。
 そのたびに私は思い出さずにはいられない。不急不要の旅行はやめよう、遊山旅行は敵だ等々のポスター、代用食の芋駅弁を奪い合う乗客、車内は超満員でトイレにも行けず、座席の間にしゃがみこむ女性、そして憲兵のように威張っていた車掌。
 汽車に乗っていて、ときどき私は、いまは夢で、目が覚めると、あの時代に逆戻りするのではないかと思うことさえある。二度とめぐり合いたくない時代である。それゆえに、絶対に忘れてはならないと思う
」(「あとがき」)

昭和8年の山手線に始まり、昭和20年の米坂線109列車までを取り上げてゐます。丁度日本が戦争に向かつて行く時代から挫折を味はふ時代に重なつてゐるのです。
初期作品に良く見られた諧謔調は鳴りを潜め、あへて感情を抑へた文章であります。これが大変効いてゐます。

そして有名な、山形県今泉駅前で聞いた玉音放送のくだり。駅前で放送が終つた後でも、人々は動かずにラジオから離れずにゐました。そこへ汽車が来ます。ここは何度読んでも胸がつまるところであります。

時は止まっていたが汽車は走っていた。
 まもなく女子の改札係が坂町行が来ると告げた。父と私は今泉駅のホームに立って、米沢発坂町行の米坂線の列車が入って来るのを待った。こんなときでも汽車が走るのか、私は信じられない思いがしていた。
 けれども、坂町行109列車は入ってきた。
 いつもとおなじ蒸気機関車が、動輪の間からホームに蒸気を吹きつけながら、何事もなかったかのように進入してきた。機関士も助士も、たしかに乗っていて、いつものように助役からタブレットの輪を受けとっていた。機関士たちは天皇の放送を聞かなかったのだろうか、あの放送は全国民が聞かねばならなかったはずだがと私は思った。
 昭和二〇年八月一五日正午という、予告された歴史的時刻を無視して、日本の汽車は時刻表通りに走っていたのである。
」(「第13章 米坂線109列車」)

本書は「増補版」といふことで、14章から18章までが追加されてゐます。確かに著者の語るやうに、鉄道史における戦後は、昭和24年頃まで続いたのであります。特に21-22年あたりが、日本の鉄道史最悪の暗黒時代といはれてゐます。米国に全てにおいて力の差を見せ付けられ、敗戦国であることを嫌でも思ひ知らされる屈辱の数々。
宮脇さんはここまで書かなければ完結しない、と思つてゐたやうですが、終戦時の今泉駅で燃え尽きたさうです。なるほど13章以前と14章以後では、文章の濃淡にかなり差があります。
しかしそれでも、この増補版でやうやく「完全版」として世に出た訳であります。その意味は大きいでせう。
今後も読み継がれることを切に願ふ書物のひとつでございます。