源氏川苦心の快楽書肆
古い本を探しては読みふけつてゐます。よければお付き合ひくださいな。
名古屋駅物語
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名古屋駅物語 明治・大正・昭和・平成~激動の130年

徳田耕一【著】
交通新聞社(交通新聞社新書)刊
2016(平成28)年4月発行

JR名古屋駅(名駅)が開業して、今年で130周年であります。駅構内に「ありがとう130周年」ののぼりが掲げられてゐるので、目にした人も多いでせう。
このタイミングで、『名古屋駅物語』が上梓されました。著者は東海地区の鉄道事情に関する著書多数の徳田耕一氏。徳田氏は自身が名駅界隈で生まれ、その成長ぶりを生で知る一人であります。これ以上の適任者はございますまい。

現在でこそ名駅は中部日本を代表するタアミナルですが、元来東西を結ぶ幹線鉄道は、中山道経由で建設される予定でした。即ち名古屋はメインルートから外れる運命にあつたと。それを当時の名古屋区長(現在の市長にあたるさうです)であつた吉田禄在が、中山道の山越えでは工期も資金も膨れ上がると主張、東海道本線の優位性を説きそれを実現させたとか。ほほう。吉田禄在氏は名古屋の大貢献者なのですね。

元元名古屋は城下町として栄えましたが、決して交通の要衝ではありませんでした。そんな名古屋のタアミナルは、西の外れ笹島に設けられたのであります。今から130年前、1886(明治19)の事でした。当初は名護屋駅と名乗りましたが、翌年名古屋駅に改称されてゐます。もつとも周囲の人々は「笹島ステンショ」と呼称したとか。
この初代名古屋駅は、僅か2面2線の小ぢんまりした規模で、現在とは比ぶべくもないものでした。しかし1891(明治24)年の濃尾地震で駅舎は倒壊、直ちに二代目駅舎が再建されました。規模こそ二倍になりましたが、施設としては2面3線と、特段に変化があつた訳ではありません。

そして1937(昭和12)年、客貨とも利用が膨大に増えた名古屋駅は、手狭な二代目から北北西に位置を移し、三代目駅舎の誕生を迎へます。ホーム4面13線となり、タアミナル駅としての風格も具へ、「東洋一」の規模と呼ばれました。
翌1938(昭和13)年には関西急行(近鉄の前身)名古屋駅が国鉄駅の地下に開業し、さらに1941(昭和16)年には、名鉄の新名古屋駅も開業。これは、北の押切町と南の神宮前で市内タアミナルが分断されてゐたのを、地下を介して直通させたもので、名古屋本線がここに全通したのでした。このあたりが戦前の名駅全盛期でせうか。

戦中戦後の最悪期を乗り越えた名駅は、1957(昭和32)年、念願の地下鉄が開業。同時に路面電車の衰退が始まります。
1964(昭和39)年は、ご存知東海道新幹線が開業。名古屋の新幹線駅は、在来線の西側に作られました。ドヤ街の立ち退き問題とかありましたが、この一大闇市はさう簡単に消滅しません。駅西の妖しい匂ひは、現在でもプンプンいたします。

一方国鉄は分割民営化といふ歴史的転換を迎へ、名駅はJR東海の顔として君臨します。1999(平成11)年には、新たなシンボルとなる超高層ツインビル「JRセントラルタワーズ」が開業。以後名駅周辺の高層ビル化が進むのであります。
次なるビッグプロジェクトは、何と言つてもリニア中央新幹線の名古屋駅開業でせう。如何なるスーパーターミナルとして生れ変るのか、目が離せぬところであります。

徳田氏は名駅の歴史を、自らの成長と重ね合はせながら、思ひ入れたつぷりに語ります。幼時、高嶺の花だつた「はとガール」との触れ合ひ。少年時代、名駅構内で写真を撮りまくつた日々。家出した母を名駅中央コンコースの待合室で発見したこと。“ばあちゃん”にせがんで乗せてもらつた「夢の超特急」の思ひ出。名鉄電車内で行つた、自身の結婚披露宴二次会(須田寛氏、宮脇俊三氏、種村直樹氏らも列席。スゴイ!)......
徳田氏の著書だけあつて、鉄分は相当高いですが、専門的な話は少ないため、一般人でも大丈夫。特に地元の方々には興味ある一冊となるのではありますまいか。

ぢやあまた。ご無礼します。



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文章読本
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文章読本

谷崎潤一郎【著】
中央公論新社(中公文庫)刊
1975(昭和50)年1月発行
1996(平成8)年2月改版

「文章読本」の類は数多いですが、先日(7月24日)生誕130年を迎へた大谷崎による『文章読本』が、その嚆矢となります(たぶん)。
谷崎によると、読者には専門家を想定せず、なるたけ多くの人に読んでもらふ目的であるので、通俗を旨とする方針なのださうです。通俗......

章立ては「一 文章とは何か」「二 文章の上達法」「三 文章の要素」に分けられ、それぞれ細分化してゐます。
まづ「文章とは何か」。まづ言語の効用と限界を説きます。言葉は万能では無い。それどころか使ひ方によつては、有害ですらあると説明します。
そして有名なフレイズ「文章に実用的と藝術的との区別なし」。後年、色色な人が疑義を挟むのですが、まあ大文豪の御説だからいいでせう、てな感じですかね。
そして日本語を西洋の文章と比較して、日本語の語彙が貧弱なのは、我我国民が寡黙・沈黙を好んで来たからだとの説。これまた微苦笑を誘ひますが、本当ですか?

続く「文章の上達法」。冒頭でイキナリ言ひ放ちます。「文章の上達法については、既に述べたところで自(おのづか)ら明らかになつてゐる点が多いと思ひますから、こゝにくだくだしくは申しますまい」おいおい。大先生逃げたな。
で、この章では「文法に囚われないこと」「感覚を研くこと」の二点が挙げられてゐます。前者について丸谷才一氏は、この「文法」とは、「英文法」のことを念頭に書いてゐる筈だから、「英文法」と読み替へれば理解し易い、みたいなことを述べてゐました。
なるほど、主語があつて述語があつて目的語があつて......といふのは英文法。英語の普及の所為で、英文を直訳したやうな日本語が罷り通つてゐたのでせうね。

最後は「文章の要素」。要素には六つの面があると説きます。即ち「用語」「調子」「文体」「体裁」「品格」「含蓄」。
特に「含蓄」については、「この本は始めから終りまで、ほとんど含蓄の一事を説いてゐるのだと申してもよいのであります」。さうだつたのか! 迂闊にもわたくしには、とてもさうは思へなかつたので。特に、志賀直哉の文章(「城の崎にて」)を激賞した箇所は、解説の吉行淳之介氏の指摘を待つことなく、含蓄とは程遠いやうな気がします。

結論としては、たぶん本書を読んで名文家が誕生する可能性は低いと申せませう。その代り、まるで講演会で大谷崎が壇上から名人芸を披露してゐるやうな心持になります。聴衆はその名調子に陶然とするでありませう。さういへば井上ひさし氏も、谷崎読本は瑕だらけだが、読み進むうちにその瑕が次第に笑窪に変ると評してゐました。
文章上達を期待せずに読めば、実に面白い読み物であります。今後もロングセラアは続くでありませう。
ではまた。



音楽入門
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音楽入門

伊福部昭【著】
KADOKAWA(角川ソフィア文庫)刊
2016(平成28)年6月発行

角川ソフィア文庫の新刊ですが、元元は1951(昭和26)年に出版された古い作品であります。帯に書いてある文字は、次の如し。「本能を震わすメロディの秘密。ゴジラ音楽の原点を明かす!」
ははあ、要するに「シン・ゴジラ」に便乗した商品ですな。しかし名著が安価な文庫版で手に入るのは恭賀すべきものがあります。と言つてもこの薄い本が821円とは、今さらながら文庫本も高くなつたと感じるのでした。

故・伊福部昭氏は21歳で「日本狂詩曲」にてチェレプニン賞を受賞して以来、独自の音楽世界で日本の音楽界を牽引し続けてきた人。教育者としても、黛敏郎氏や芥川也寸志氏らを輩出するなど、押しも押されもせぬ存在となりました。
映画音楽の世界に入つたのは、先に映画の仕事をしてゐた盟友・早坂文雄の勧めもありましたが、何よりも生活の為だつたさうです。最初の映画の仕事は、新人監督谷口千吉の「銀嶺の果て」。監督・音楽のみならず主演の三船敏郎さんもデビュー作と、実にフレッシュなメムバアによる山岳アクション映画となりました。

さて『音楽入門』ですが、かつては「音楽鑑賞の立場」なるサブタイトルが付されてゐました。今回の文庫版では、何故かサブタイトルは省略されてをります。どうでもいいけど。
執筆目的は、いはゆる芸術音楽(まあ、今でいふ「クラシック音楽」とほぼ同義でせうか)を鑑賞するにあたつて、ウブな初心者たちに「何も構へて聴くことはない、自分の直観に従つて愉しめば良いのです」と啓蒙せんが為ですかな。実に平易で優しい語り口なので、わたくしのやうな素人でも理解できます。

「はしがき」で、国立博物館を見学に来た中学生の話があります。先生に引率された彼らは、掲示された説明文や先生の解説を、新聞記者よろしく熱心にノートに取つてゐたさうです。しかし生徒たちは、肝心の陳列物を鑑賞することはつひに無かつたと。作品の背景や知識を仕入れることに精一杯で、これでは少年少女たちは、大人の芸術の鑑賞方法はかういふものであると学んでしまふでせう。

これと同様に、音楽も教科書的な知識や専門家の意見を鵜呑みにし、自分の耳で聴いた直観がそれと違ふ場合は「ああ、俺は音楽の素養が無いのだな」と思ひ込んでしまふ初心者が多いと指摘します。
伊福部氏はアンドレ・ジイドの「定評のあるもの、または、既に吟味され尽くしたものより外、美を認めようとしない人を、私は軽蔑する」といふ言葉を引き、かういふ陥穽から逃れるには、逆説のやうだが、同時代の教養と呼ばれるものを否定するくらゐの心構へが必要だと説きます。
むろん根拠のないいたづらな否定を推奨するわけではありません。その辺の事情は、本書を読むうちに追追分かつてくるのであります。

本書は1985年、2003年にそれぞれ改訂版、新装版が出てをりまして、その都度の跋文も収録されてゐます。内容の古さに忸怩たる思ひであると述べてゐますが、どうしてどうして、音楽といふジャンルのみならず、本書から啓発される部分は今でも多いのであります。
巻末には1975年に行はれたインタヴューも。いやあ、お徳用の一冊ですなあ。「シン・ゴジラ」に興味は無い人も勇気を貰へますよ。


インド鉄道紀行
無題

インド鉄道紀行

宮脇俊三【著】
角川書店(角川文庫)刊
1993(平成5)年3月発行

インドもまた、鉄道王国であります。アジアで一番最初に開通し、それは日本より19年も早いのであります。宮脇氏の取材時(1988年)には、総延長は約62000キロに及んでゐました。ざつと日本の三倍くらゐでせうか。まあ国土の広さが全く違ふので、一概に比較はできませんが。
そんな「鉄道の国」インドですが、宮脇氏が訪れるのはかなり遅くなつてからです。既に35か国に渡航しながら、インドはまだ手付かずだつたのです。本人の弁では、「大切に温存してきた、「とっておき」の国」だとか。
しかし齢を重ね、元気なうちに行かねば永遠に機会を失ふ恐れもあり、意を決して行くことしたさうです。

紀行作家・宮脇俊三が行くからには、当然その旅行記を残すことが大前提であります。インド旅行記は角川書店の「野生時代」に連載することになり、宮脇氏はシベリアや中国でお馴染みになつた「ヒルさん」こと中西千明氏の同行を希望したのですが、中西氏はすでにエライ人に出世してしまひ、多忙にてお伴は出来ないとのこと。読者も残念であります。
代つて宮脇先生のお伴をするのは、若い編集部員の高柳良一氏。この名前にピンと来た人は、映画通かも知れません。かつて「時をかける少女」「天国にいちばん近い島」などの映画で、主演の原田知世さんの相手役として抜擢された元俳優でした。
しかしこの高柳氏、実に物静かで寡黙な人のやうで、宮脇氏が話しかけても「......」と反応が無かつたりします。これでは宮脇氏も肴にできませんなあ。その代りといふか、現地ガイドのポール氏が良い味出してゐます。実に親切で、有能なガイドさんであります。

訪れた主要な土地は、ニューデリー、デリー、カルカッタ、アグラ、ボンベイ、デカン高原など。何処へ行つてもインドらしさが満載であります。喧噪、混沌、貧困(スラム街が多く、しつこい物乞ひの少年少女がどこにでもゐる)。治安も良くないやうです。宮脇氏は一流ホテルだけではなく、庶民の泊まる大衆宿にも投宿したい旨を旅行会社に伝へてゐましたが、無謀とのことで却下されてゐます。
乗つた列車は、「ラジダーニ特急」「エアコン急行」「世紀急行」「ウディヤン急行」など。と言はれてもイメエヂが湧きませんね。「エアコン急行」とは妙な名前ですが、文字通りエアコンが完備されてゐる急行列車ださうです。インドは暑い国なのに、鉄道の冷房化率は低く、冷房付きの列車はかなりグレードが高い扱ひなのですね。当然料金にも差があります。

宮脇氏が残念に思つたことが二点ほど。一つは今回の旅は旅行会社主導でスケジュールが決つた為、暑い時期に訪れたかつたインドなのに健康を気遣はれて11月末の出発になつたこと。
もう一つ。インドの鉄道は線路の軌間の種類がいくつかありまして、特にナローと呼ばれる762mmとか610mmの狭い区間が結構多くて宮脇氏はこれらの列車にも乗りたかつたのですが、実際には1676mmの幹線区間にしか乗れなかつたこと。

この二点が心残りで、宮脇氏は結局翌年6月にインドを再訪します。ポール氏との再会も果たし、念願のナロー区間のひとつである「シムラ軽便鉄道」に乗車するのでした。もう思ひ残す事はないでせう。
経済成長著しい2016年現在のインドは、宮脇氏が訪れた時とは大きく異なるのでせう。しかし(それだからこそ、かな)本書の価値が減じることはありますまい。



野中広務 差別と権力
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野中広務 差別と権力

魚住昭【著】
講談社(講談社文庫)刊
2006(平成18)年5月発行

先達ての参議院選挙に先立ち、野中広務氏が自民党に復党してゐました。かういふ護憲の人は、安倍政権にとつてプラスになるのかしらん、と思つたら、どうやら野中氏が強いパイプを持つといはれる土建屋さんの票が目当てだつたやうです。立つてゐる者は、90歳でも使へ。
政界引退から十余年の現在でも頼られる、野中広務氏とはいかなる人物か。一般には、陰で権謀術数を駆使する闇将軍の印象でせうか。悪代官のイメエヂも強いやうです。

しかるに、魚住昭著『野中広務 差別と権力』を拝読しますと、なかなかどうして、それだけの人物ではないらしい。現在ではよく知られてゐますが、野中氏は生れながらにして差別を受ける境遇でした。いはれなき迫害を受けた経験を持つ野中氏としては、故なく虐げられる人たちへ限りなく温かい眼差しを向けます。
たとへば、ハンセン病訴訟では当時官房長官の職にありながら、国を相手取つた原告側に寄り添ふ行動を取つてゐます。原告団の事務局長は「素晴らしい政治家です。細やかな気配りがあって人間として温かい。言葉の一つひとつに、傷ついた者をこれ以上、傷つけてはいけないという気持ちがにじみ出ています。今、私は野中さんのことを手放しで信頼できると言いますよ」と絶賛してゐます。たいした惚れつぷりですな。

本書の第二章のタイトルに「融和の子」とあります。その後の野中氏の歩みを見るにつけ、なるほど、うまい表現だと感じました。一方的に弱者の味方かといふと、時には「わしはお前らだけの町長とちがう。全町民の町長や。お前らだけの言うことを聞けるかっ」と一喝する一面もあります。
後に中央政界で「闇総理」と呼ばれるやうになり、政敵を次々と叩き落す一方で、身障者の施設を設立・運営したり、先述のやうにハンセン病患者の味方になる。また、松本サリン事件で容疑者扱ひされた河野義行氏は、疑ひが晴れても警察・マスコミ等から一切直接謝罪をされなかつたさうですが、唯一の例外が野中氏だつたと言ひます。弱者・虐げられた者たちへの優しさは、権力を握つてからも失はなかつたのであります。

総理に上り詰める日も遠くないのではと思はれた野中氏ですが、自らは手を挙げることもなく、結局野中総理は実現しませんでした。魚住昭氏はその理由を、部落解放同盟の小森龍邦氏の言葉が正解ぢやないかと語ります。即ち「ふつうの議員だとその出自は問題にならんけど、総理になって日本を動かす立場になるときに『あの人の出生はこうなんだ』とキャンペーンがはられる。利害関係が一番厳しゅうなったときに部落差別が出てくるんです。それを本人は分かっていたんではないですか」といふことです。「融和の子」としては十分首肯できる意見ですね。

さういへば失言のホームラン王・麻生太郎氏が「野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」と発言したとか。麻生氏は否定しますが、「自分も聞いた」といふ証人も複数ゐるさうです。島崎藤村『破戒』から100年が経過しても変らぬ差別。
野中広務氏の歩みを辿ると、日本人が抱へる問題がぽつかり浮かんできます。まさに「私は闘う」人ですね。



怪獣総進撃
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怪獣総進撃 怪獣小説全集Ⅰ

香山滋/福島正実【著】
出版芸術社刊
1993(平成5)年12月発行

つひに今月、ゴジラの新作が封切られますね。その内容が次第に明らかになるにつれ、不安が増大するのはなぜでせうか。「ファイナルウォーズ」があんな出来だつたので、せめてもう少しましな映画にしていただきたいと考へるのですが。なぜ金子修介氏や手塚昌明氏に依頼しないのか。
2014年のハリウッド版ゴジラも観ましたが、あれなら酷評された1998年版の方が余程良かつた。もう面白いゴジラ映画にはお目にかかれないのでせうか。

などと愚痴を言つても詮無いこと。香山滋氏のゴジラでも読みませうか。『怪獣総進撃』と題された書物がここにあり、三篇の特撮映画の原作が収録されてゐます。まづは「ゴジラ」。ここでは「G作品検討用台本」と題されてゐます。当時は事前に情報が漏れるのを警戒して、「G作品」と称してゐたのですね。
完成作品と比べると、山根博士のマッドサイエンティストぶりがより目立つてゐたり、芹沢大助博士がやたらとおつさん臭かつたり、恵美子ちやんがずいぶん積極的な女性だつたりと、結構相違がありますが、全体の大きなストオリイの流れはすでに構築されてゐます。もうこの作品を超えるものは出てこないのか。

続いて「獣人雪男」。これも香山滋氏によるもの。東宝特撮作品の中でも、未だソフト化されてゐなくて、「幻の作品」といはれてゐます。わたくしも未見なのです。ドラマCDは聴きましたがね。
「ゴジラ」と同様に宝田明さん・河内桃子さんのコンビ。しかしそれ以上の存在感を示すのが、山の娘チカを演ずる根岸明美さんですな。まるで完成作品を鑑賞したかのやうな物言ひですが、原作小説を読んだ上の感想であります。根岸さんといへば、「キングコング対ゴジラ」で、島の原住民の子・チキロの母親役が印象に残ります。

最後は「マタンゴ」であります。これは福島正実氏が原作を執筆してゐます。映画クレジットでは星新一氏との連名になつてゐて、あたかも共同執筆のやうに見受けられますが、実態は当時福島氏の知名度がまだ低かつた為、星氏の名前を借りたのださうです。
本多猪四郎監督の作品には、根つからの悪人は出ないと言はれてゐます。ところが「マタンゴ」の登場人物は、ロクな奴はゐません。言はば全員が悪人であります。極限状態におかれた人間の生態を描く上では、むしろ自然なことでせう。一番聖人君子面した小泉博さんが裏切つた時は、観客はこの後、何を拠り所に鑑賞すればいいのか分からず、突き放されたやうな心持になつたのであります。妖艶な水野久美さん、純情な八代美紀さんの配役の妙もよろしい。
なほ、キノコの怪人「マタンゴ」(天本英世さん!)の声は、あのバルタン星人の声(フォフォフォ......)に流用されました。これは割と有名な話。

少少メイニアックな一冊ですが、東宝特撮が好きな人なら覗いてみませう。ぢやあまた。



命のビザ、遥かなる旅路
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命のビザ、遥かなる旅路 杉原千畝を陰で支えた日本人たち

北出明【著】
交通新聞社(交通新聞社新書)刊
2012(平成24)年6月発行

杉原千畝氏の名声は、経年するほどに高まつてきてゐるやうな気がします。先達ても、杉原ビザで助かつた人やその子孫が多く住むイスラエルのネタニアに、「杉原千畝通り」が誕生したとのニュウスも聞きました。出身地の岐阜県八百津町でも、「おらが町の偉い人」としてその功績を讃へてゐます。

リトアニアで杉原ビザを手にしたユダヤ難民たちは、シベリア鉄道にて浦塩まで行き、そこから航路で福井県敦賀に一旦上陸、その後は国際港横浜や神戸に陸路移動し、目的地(主に米国)まで向かふといふルートが一般的だつたさうです。
しかしたとへビザがあつても、目的地までは遠い。その間に如何なる困難が待ち受けてゐるか、当の難民たちは道中、生きた心地はしなかつたのではないでせうか。

そんな彼らの逃避行を陰で支へた個人・集団にスポットを当てたのが本書『命のビザ、遥かなる旅路』であります。著者によると、千畝の人道的行為は称賛されてしかるべきであるが、「ただ、私が訴えたいのは、杉原の行為を人知れず陰で支えた人々の存在も忘れてはならないということであり、特に、杉原に恩義を感じているユダヤ人社会の人々にもそのことを知ってもらいたいと強く願うのである」(第1章より)といふ意図で本書を書いたとか。

JTBや日本郵船が果たした知られざる貢献、難民が一時滞在した敦賀や神戸の人人の対応などが、関係者への取材や当時の新聞記事で明らかになります。
特に長旅からやうやく上陸した敦賀は「天国のやうに感じた」と、述懐する難民が多かつたやうです。難民たちは見るからに疲弊しきつて、着衣も襤褸襤褸の状態。敦賀市民は歓迎こそしなかつたでせうが、偏見から排斥することもなく受け入れた民度の高さには感服であります。ある銭湯では、一日休業し、難民のために無料開放したとか。またある子どもは、「ユダヤ人は本来優秀な民族である。みすぼらしい服装をしてゐるからといつて、見かけで判断してはいけない」と大人に教へられたさうです。

本書の白眉は、第4章の「スギハラ・チルドレンを訪ねて」でせうか。著者は米国ヒューストン・ボストン・ニューヨーク・ワシントン・シカゴを訪問し、杉原ビザによつて救はれた人やその関係者を精力的に取材しました。
杉原ビザは約6000人分発給されたといはれますが、その子孫の広がりを考えへると、30万人の命を救つたとも伝へられます。
ユダヤ教の聖典「タルムード」には、「一つの命を救う者は世界を救う」とあるさうですが、杉原千畝の行動は、まさにそれを地で行くものだつたのですね。

著者は本職のノンフィクションライターではない為、ところどころで限界を感じさせる記述もございますが、新たな視点から書かれた杉原本として、労作であることには間違ひないでせう。

デハ今夜はこんなところで、ご無礼します。



安土往還記
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安土往還記

辻邦生【著】
新潮社(新潮文庫)刊
1972(昭和47)年4月発行

本作については、まづ新潮文庫カヴァーの紹介文を引用しませう。

争乱渦巻く戦国時代、宣教師を送りとどけるために渡来した外国の船員を語り手とし、争乱のさ中にあって、純粋にこの世の道理を求め、自己に課した掟に一貫して忠実であろうとする“尾張の大殿(シニョーレ)”織田信長の心と行動を描く。ゆたかな想像力と抑制のきいたストイックな文体で信長一代の栄華を鮮やかに定着させ、生の高貴さを追究した長編。文部省芸術選奨新人賞を受けた力作である。

ええ、以上であります。これで終つてもいいのですが、ちよつとだけ蛇足を。
冒頭で、本書が世に出た経緯を著者は書いてゐます。著名な蔵書家の書庫から発見された古写本に、かなり長い書簡の断片が別紙で綴ぢ込まれてゐたと。それを作者が翻訳を試みたと述べてゐます。なほ、原文はイタリア語であつたが、C・ロジェール氏の仏文試訳から翻訳を行つたといひます。

......ふふふ。中中手が込んでゐますな。イザヤ・ベンダサンか。まあいい。その書簡はイタリアの船乗りが書いたことになつてゐて、どうやら布教のため、宣教師を日本へ送り届ける役割を担つてゐたやうです。
その船乗りの名前は作中では明らかにされず、「私」といふ一人称で語られるのみであります。
その「私」が、戦国時代の日本で尾張の大殿(シニョーレ)と出会ひ、大殿の庇護の下で布教活動に勤しみます。そして大殿が本能寺で自害するまでを、友人に宛てた書簡といふ形式で叙述してゐるのです。大殿とは、むろん織田信長のことですが、実際には信長の「の」の字も出てきません。一貫して「大殿」と表現されます。

天下をほぼ平定したといつても、毛利氏との戦が続いてゐることもあり、大殿の表情には陰影が絶えません。戦場に於いては、容赦ない殲滅作戦を展開する大殿ですので、側近たちも戦戦兢兢として心休まらないやうです。
しかしながら「私」の眼に映る大殿は、ただひたすら「事が成る」ことを眼目に生き、徹底した合理主義を求める孤独なリーダーの姿でした。
腐敗した仏教界を嫌悪したり、その反動か宣教師たちに常識外れの厚遇をみせるのも、すべて「事が成る」ことを目指してゐたからだらうと。で、次のやうに理解を示すのであります。

私が彼の中にみるのは、自分の選んだ仕事において、完璧さの極限に達しようとする意志である。私はただこの素晴らしい意志をのみ─この虚空のなかに、ただ疾駆しつつ発光する流星のように、ひたすら虚無をつきぬけようとするこの素晴らしい意志をのみ─私はあえて人間の価値と呼びたい。

当時の信長の周辺で、かかる分析をした人はゐなかつただらうな、と思ふのですが、そこを海外から来た船乗りの目を通じた大殿といふことにして、不自然にならず実に新鮮な信長像を描き出したと申せませう。文章も無駄が無く、引き締つた文体で心地良い。
信長について、ある程度予備知識を有する人なら、更に愉しめるでせう。ぢやあ又。