源氏川苦心の快楽書肆
古い本を探しては読みふけつてゐます。よければお付き合ひくださいな。
国難
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国難 政治に幻想はいらない

石破茂【著】
新潮社(新潮文庫)刊
2015(平成27)年8月発行

いつぞや石破茂氏の『国防』といふ本を取り上げました。さすがにミリタリーの専門家だけあつて、説得力のある話でした。為政者は軍事のプロでなくてはいけないと語る石破氏の覚悟と信念が感じられました。
将来的に地方分権が進んでも、国防と外交は国の責任となるでせう。しかし軍事に関して一家言ある政治家が思ひのほか少ないといふ話は、まことに心許ないところです。平和を語るその口で軍備の話をすれば、票を失ふとでも思つてゐるのでせうか。そして平和主義者ほど、ミリタリーに無知ではゐられない昨今でございます。なんて偉さうな事を言ひながら、わたくしも素人丸出しですが。

そして『国難 政治に幻想はいらない』であります。
周知のやうに、日本は戦後、世界史上まれにみる経済発展を遂げ、格差の少ない、平和で治安の良い国を作りあげてきました。人口は増え続け、今日よりも明日の生活が必ず良くなるといふ、将来への希望があつたからであります。
ところが今や、景気の良い話はどこにもありません。雇用は不安定になり、将来の不安から消費は滞り、超高齢化社会で年金は目減りし、治安も悪化して、国の借金は増える一方なのです。みんな頑張つたつもりで、こんな国を作つてしまつた。

本書は自民党が野党に転落してゐた時期を中心に書かれてゐます。ゆゑに、各所で当時の民主党政権に対して猛烈批判が展開されてゐます。政権与党を攻撃するのは野党の役目なので、それはまあ良いのですが、長年に亘つて政権を担つてきた我が党の責任についてはあまり感じてゐないやうです。確かに「自民党に責任がある」「反省」などのフレイズはちよくちよく出てきますが、どうもその言葉は空疎に響きます。
ここで念のために添へますが、別段民主党を擁護する積りは毛頭ございません。彼らの政権運営は確かに下手糞でありました。目を覆ふほどに。そしてそれを選んだのは国民であります。この国の有権者は選ぶ権利は声高に叫ぶが、選んだ結果に対して責任を感じぬやうです。二大政党制も真の民主主義も育たぬのは、かかる背景があるからでは。

さて国難を乗り切るには、従来のやうに政治家が国民に耳障りの良い言葉ばかり述べてゐてはいけない、真実を語らねばならないと石破氏は語ります。最近はかういふ意見が優勢ですな。ポピュリズムに陥るな、大衆に迎合するな、なんて。
その通りでせうが、それを増税や社会保障の水準低下の言ひ訳にされると、「待てよ」と個人的に思ひます。
この国難を招いたのは誰か。その反省もなく一方的に国民に「金がないからしようがないだらう」と負担を求める姿勢に疑問を感ずるのであります。「身を切る改革」などと言つても、それは結局国民の身を切ることですな。議員さんがその特権を自ら放棄する事は考へられませんね。こんなオイシイ商売、やめられるか。税金で物見遊山ができなくて何の為に議員になつたんだ。
石破氏も、議員の削減や歳費カットでは限界がある、などと消極的な姿勢ですね。限界までやつてもゐないのに。

逆さに振つても鼻血も出ないぜ、といふくらゐ無駄を省いたカネの分配をした上でなら、本書の主張は20000%同意できるものです。あ、最高で100%でした。訂正します。
かういふ話題を語るのは、本来わたくしの柄ではありません。ご無礼をいたしました。



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韓国・サハリン鉄道紀行
無題

韓国・サハリン鉄道紀行

宮脇俊三【著】
文藝春秋(文春文庫)刊
1994(平成6)年8月発行

韓国とサハリンを並べられると、その気になればいつでも行ける韓国に対して、中中自由には渡航できぬサハリンの方により興味が湧くのは致し方のないことろであります。
鉄道事情に関しても、韓国はプロアマ問はず様々な人が紀行文を公にしてゐます。乗る列車も、たいがい「セマウル号」と相場が決つてをりますので、宮脇氏の「韓国鉄道紀行」もまあ似たやうなものかな、と若干高をくくつてゐたのであります。無礼な奴。

ところが、韓国行のきつかけはそもそも鉄道ではなく、「日本通史の旅」の取材のためでした。韓国を訪れるのは実は初めてだつたさうです。だいたいこの人、海外は三十数か国も訪問してゐるのに、近隣の国ほど後回しにする傾向がありますな。
で、実際に訪韓しますと、史跡の他にも、韓国人やポン引きや、もちろん鉄道のことなどを書いてみたくなり、「鉄道紀行」が誕生したのださうです。
この時期の宮脇海外本の傾向として、編集者や現地ガイド、時にはカメラマンまで同行する、宮脇氏の表現を借りれば「大名旅行」が一般的になつてゐましたが、この韓国紀行はどうやら基本に立ち帰つて一人旅のやうです。少なくとも、一人旅の如く描写してゐます。同行者を肴にするのも良いですが、やはり一人旅が引き締まる。わたくしは勝手にさう思つてをります。

行程は本人が決めただけあつて、無駄がなく、かつ必要な要素は全て入つてゐます。ソウル-大田-公州-扶余-論山-全州-麗水-釜山-慶州-安東-ソウルといふルウトを一週間で廻る。韓国ひとめぐりの観光も兼ね、メインの史跡巡りは公州、扶余、慶州でたつぷり時間を取る。鉄道に関しては、四種の種別に全て乗るバランスのよさであります。
四種とは、①セマウル号(特急)、②ムグンファ号(急行)、③トンイル号(準急)、④ビドゥルギ号(各駅停車)。宮脇氏は海外ではいつも、特に庶民の臭いがする各駅停車に乗りたがるのでした。

一人旅とはいへ、道中様々な人たちに助けられます。特に慶州の仏国寺で声をかけられた初老の男性・尚さんは不思議なほど親切にしてくれます。日本で親切にされたから、恩返しと述べますが、それにしては過剰なもてなしぶりで、尚さんの家族は内心迷惑だつたのではと気遣ふほどでした。
また、ホテルのボーイ青年も親切でしたが、女の子を紹介するのに熱心すぎて、こちらはどうも好感が持てませんなあ。
再訪したいとの思ひを持ちつつ、「アンニョンヒケプシオ韓国」と締めるのでした。

サハリン鉄道紀行」は一転してツアーであります。冷戦時代などは、鉄道による観光ツアーなんて夢のまた夢でしたが、ゴルビーのペレストロイカ政策で、外貨獲得の目的もあり、門戸が開かれたといふことです。
しかし行程的には大いに不満で、全体の一部しか乗れないことになつてゐます。ユジノサハリンスク(豊原)を中心に行つたり来たりの、同じ路線を何度も走る無駄なルートであります。外国人観光客を迎へるには、かういふルートにならざるを得ないさうです。そとづらの良い面しか見せたくないのでせう。
しかもツアー料金が莫迦に高い。五泊六日で28万5000円。しかも東京発ではなく、稚内集合・解散であります。外貨欲しさが高じてソ連(当時)が日本人の足許を見たのでせうか。

と、何かと不満の多いツアーですが、とにかくこれに参加しないことにはサハリンの鉄道に乗れないのです。それにツアーならではのメリットもあります。
それは、同行者がテツばかりですので、気を遣ふこともなく、様々な情報交換の場にもなつてゐます。その面面は、竹島紀元氏、斎藤雅男氏、小池滋氏、徳田耕一氏と錚々たるメムバア。特に斎藤氏のコメントは目の付け所が違ひ、ユウモワもあります。そして我が宮脇氏は、お馴染み文藝春秋の加藤保栄氏(後の作家・中村彰彦氏)を同行。こんな人たちと旅をすれば、どこであらうと刺激的ですな。

戦前に日本が敷設した鉄道に、思ひを馳せる参加者。しかし最近のニュウスで、ロシアはサハリンに残る日本規格の鉄道を、ロシア規格に改修すると聞きました。むしろ、よくぞ今まで日本の狭軌規格で生き残つてゐたなあと。それだけサハリンは近代化から取り残されてきたのでせうか。
宮脇氏の感想で印象的だつたのが、夜の暗さ。ユジノサハリンスクのやうな大きな都市でも、夜の灯りが乏しく、実に暗いと。しかしこれが本来の夜で、日本の夜はケバケバしく明るすぎると指摘します。

ただ、ツアーが終り稚内へ着くや「やはり日本の方がいい」と、ネオン街へ繰り出し、冷えたビールを飲んだといふことです。こちらも本音でせう。



英語遊び
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英語遊び

柳瀬尚紀【著】
講談社(講談社現代新書)刊
1982(昭和57)年4月発行

わたくしの好きな人たちが次々と去つてしまふのです。しかも志半ばで。
人気翻訳家の柳瀬尚紀氏が亡くなつたのが先月30日。73歳は現代では早過ぎると申せませう。ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』全訳は未完のままとなり、さぞかし本人も心残りではないかと勝手に想像してゐます。

かなり古い本ですが、『英語遊び』を登場させます。これは英語の学習書ではありません。文字通り英語を遊び倒す本であります。
いやあ、遊ぶほどの英語力をボクは持つてゐないから、などと物怖ぢする必要はございません。日本語を駆使して、英語と遊び戯れる一冊です。

「1」でまづ紹介してゐるのは、詩や散文の各行の最初の文字を繋げると何かしらのメッセージになる「アクロスティック」。わたくしも自力で何とか作らうと考へたのですが、暑くて頭が働かず、発表に値する作品が出来ませんでした。代りに、某新聞のプロ野球中継番組の紹介文。

▽水曜日はブラボー!
海道の熱い観衆の目
前での快勝が見たい
谷の出番はあるか?
元・札幌で魅せろ!
るか?中田の一発!
の打線&投手陣を撃
退せよ!打て!佐藤賢
▽チケットも当たる
▽大宮龍男副音声解説

こんなんださうです。対戦ティームが阪神タイガースだつたのですね。

「2」では「アナグラム」が登場。これは有名な言葉遊びですね。ある単語に使はれる文字の順番を変へて別の単語にしてしまふ。本書の例から引くと、例へば「eat」といふ単語だと、「ate」「eta」「tae」「tea」。無論出鱈目に並べてはダメで、きちんと意味のある言葉になつてゐなくてはならないのです。
柳瀬氏は知人女性の名を次々とアナグラムにしてしまひ、これが面白いのです。例)「田渕容理子」⇒「豚より貴重」、「宮崎恵子」⇒「気障・嫌味・苔」、「久保京子」⇒「濃き欲望」、「渡辺由利」⇒「湯女、綿減り」、「伊藤貴和子」⇒「亀頭怖い」、「片山三保子」⇒「ほんま堅い子や」等等......

「3」では、「ダブレット」を紹介。ある単語の一文字づつを変へてゆき、最終的に別の意味の単語にする遊びであります。本書のカヴァー表紙にもありますが、「猫」を「犬」に変へよ、といふ場合は......

CAT
cot
dot
DOG


となります。ただ一文字づつ変へれば良いのではなく、途中の言葉もちやんと存在する単語を駆使しないといけません。
また、著者自身からの出題で、「少年を男にしなさい」では......

BOY
bay
may
MAN


これらは僅か3文字だから簡単ですが、文字数が多くなれば途中に使はれる単語が十以上要する難問もあります。

さて「4」では「発音レッスン」。
吉田健一の言葉をもぢり、英語の発音なんて覚えられないものだから、始めから諦めた方がいい、などと宣ひます。日本人がriceをliceと間違へて発音したとしても、まともなレストランならシラミではなくちやんと米を出してくれるとか、詩人の正津勉氏が猛犬を前に、命懸けで「Stop!」の発音を体得した話を紹介し、「いざとなればできる」と我我を安心させてくれます。

「5」は、「パリンドローム」、お馴染みの回文ですね。アダムとイブの会話を回文(勿論英語で)にしてしまふ力業には、笑つてしまふと同時に、凄味すら感じられます。いやあ、柳瀬氏の面目躍如たるものがあります。わたしまけましたわ。

「6」も身近な「オノマトピア」。西洋語は日本語ほど擬声語・擬態語が発達してゐない印象でしたが、どうもそれは間違ひのやうでした。さすがに『フィネガンズ・ウェイク』を翻訳した人だけあります。

「7」は「洒落」。ところで、次の文章(?)を読めますか。

生生「生」。生生生生生生生生生。生生生生生。生、生、生生。(正解は181頁)

最終章の「8」は、「ジョイス語入門」。架空の『二十世紀文学のアリス』なる書を駆使して、「瞬間接着剤のようなもので言葉と言葉をぴたっとくっつける」といふジョイス語のさはりを解説します。この解説を読んで、よし、俺もいつちよ『フィネガンズ・ウェイク』を読んでみるか!と思ひたち、天存で河出文庫版を取り寄せたはいいが、数頁もいかぬうちに激しく後悔するのであります。しまつた、全巻買ふんぢやなかつた、取り敢へず1巻だけにしときやよかつた......

なほ、この『英語遊び』、河出文庫版も出てゐますが、それもすでに18年前で、入手難のやうです。ここはあへて、講談社現代新書版を挙げておきます。ぢやあね。



プリズン・ガール
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プリズン・ガール アメリカ女子刑務所での22か月

吉村朋美【著】
新潮社(新潮文庫)刊
2008(平成20)年8月発行

毎日暑いですね。もう聞き飽きたフレーズでせうが、暑いものは暑い。読書慾も失せるのであります。否すべての活動が億劫になる。こんな時わたくしは、漫画『じゃりン子チエ』のワンシーンを思ひ起こすのです。
チエと父親のテツが通りを歩いてゐます。あまりの暑さにチエが「暑いなあ」とつぶやくのですが、それに対するテツの返答が良い。ただ一言、「夏やんけ」。このセリフを言はれたら、暑いなどと文句を垂れるのが莫迦らしくなつてきます。けだし名言と申せませう。「夏やんけ」。

と、萎へる心を奮い立たせたところで、『プリズン・ガール』の感想文をちよつとだけ。
著者の有村朋美さんは、24歳の時、在住してゐた米国にニューヨークにて、ドラッグの密売に関与したとしてFBIに突如逮捕されます。わたしはやつてゐない!と心で叫びますが、容赦なく冷たい手錠がかけられ、その一年後に有罪判決を受けるのです。懲役二年。

で、連邦刑務所へ入所するも、案外好い加減なシステムであるらしい。いや、システムは決まつてゐても、それを運用する人間がかなりアバウトであるさうです。例へば入所時に相対した、オフィサーと呼ばれる刑務官は、所持品のすべてを持ち込み付加と断定したのですが、実は現金はOKだつたのであります。しかしなすすべなく言はれるがままになるしかなく、現金を持ち込めずに苦労したとか。
連邦女子刑務所(FCI)自体もかなり適当で、新入りにするべきオリエンテーションは一切なく、有村さんが入る部屋が決まらないからといつて、三日間も「懲罰房」に閉ぢ込められたりして(これは違法らしい)、あるおばさんオフィサーは「あなたの入所記録がまったくないわ。よくこんなんで入ってこれたわねえ」と驚いたとか。とにかくオフィサーたちのミスが多く、不安なのです。

FCIでの生活は、基本的に不自由はないやうです。シャワー、電話、テレビ、ランドリー、電子レンジは自由に使へ、レクリエーションルームに運動場が開放されてゐる(消灯時間まで)。朝起きる時間も実質自由で、点呼も一日一度だけ。売店では大概のものが揃ふ。
そして心が触れ合へる仲間も出来ました。FCIは社会の縮図、弁護士さんが言ひ放つた「アメリカの刑務所はそんなに悪いところじゃないですよ。いわば、大学の寮みたいなもんです」といふ言葉も頷けます。

しかし当然、良いことばかりではありません。何しろ筋金入りの囚人たちの集まりですから、ランドリーの順番など些細なことで喧嘩が発生します。喧嘩に対しては、懲罰房入りとか刑期が長引くとか、厳しい罰則があると言ひます。例へ自分は手を出さずに一方的にやられても、「喧嘩両成敗」で双方同罪になるさうなので、基本的に囚人たちは喧嘩を避けるのですが、思はぬ事がきつかけで、普段溜つてゐるフラストレーションが爆発すると、もう手が付けられぬ場面になります。流血騒ぎも当り前の凄惨な現場が展開されるのです。周囲もとばつちりを恐れるので、傍観者に徹するのでした。

有村さんはその後連邦刑務所から州刑務所へ移り、22か月の獄中生活が終ります。彼女は日本へ強制送還され、二度と米国の地を踏む事が許されぬ立場。尋常ならざる経験を数多く得た有村さんは、この獄中記を執筆したといふ訳です。
面白いのは、文中ではいろいろとしおらしく殊勝な態度を見せますが、多分彼女は全然反省はしてゐないだらうな、といふのが見てとれるところですな。被害者意識が丸出しなのが愉快であります。
いやいや、皮肉で申してゐるのではありません。並の人間なら「ああ、アタシは莫迦だつた」と凡庸な事を言ひさうですが、協力者でライターの藤井良樹氏によると、本を書くキツさに比べれば、一年FCIに入つた方が良いと述べる人物であります。この心臓の持ち主だからこそ、かかる楽天的な一冊が誕生したのでせう。

デハ今回はこの辺で。



不滅の“ウルフ”千代の富士貢
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不滅の“ウルフ”千代の富士貢 第58代横綱・千代の富士引退記念

「相撲」別冊夏季号’91
ベースボール・マガジン社刊
1991(平成3)年6月発行

早い。早過ぎるなあ。言ふまでもなく、元千代の富士の九重親方のこと。まだ61歳なのに、膵臓癌には勝てず、惜しまれつつこの世を去りました。昨年の北の湖親方に続き、昭和後期の大相撲を支へた名横綱が相次いで鬼籍に入る事態となつたのであります。

わたくしは元元、三重ノ海が好きになつて相撲ファンになつたのですが、その三重ノ海も晩年は休場続きで、横綱としての相撲が取れてゐませんでした。再起をかけた1980(昭和55)年11月場所、初日に当つたのが、当時売り出し中の関脇千代の富士。わたくしは千代の富士も幕下以来応援してきましたので、まことに複雑な思ひで観戦してゐました。この当時の両者は、横綱と関脇といふ関係ですが、既に力関係は逆転してゐたと存じます。
案の定、三重ノ海は千代の富士に浴びせ倒しで敗れ、続く二日目も玉の富士に屈し引退したのであります。即ち千代の富士は三重ノ海を引退に追ひ込んで、世代交代を自ら演出したわけです。

そして大関獲りがかかつた、翌1981(昭和56)年1月場所、初日から綺麗に白星を14個並べた千代の富士は、千秋楽で一敗の北の湖に敗れます。相星で並んだ両者、優勝決定戦で再び激突、やはり北の湖有利かの予想を覆し、千代の富士は上手出し投げでこの無敵の横綱を倒したのであります。
この初優勝で、日本中が大騒ぎ、たちまち国民的ヒーローとなつた千代の富士は、その年の内に大関そして横綱へと登りつめたのでした。
とにかくこの人は、見てくれが良い、スタイリッシュな横綱でしたな。まあ簡単に言へば「カッコイイ」の一言に尽きる。特に四股を踏む姿の美しさと言つたらなかつた。足のつま先がピンと天を向く、そんな横綱は他に例がありません。

不滅の“ウルフ”千代の富士貢」は、1991(平成3)年、引退記念に出版されたもの。ウルフの全記録などデータブックと、充実の読物・記事が満載であります。これを読むと、この横綱が、角界のみならずあらゆる分野の人たちから愛されてゐたことが分かります。
ちなみに、天存でも中古品が出品されてゐますが、その価格は何と16800円~25000円! 定価は税込690円なのに。いやあ、発売当時に真先に買つておいて良かつた喃。

といふことで、追悼の一冊でした。では御機嫌よう。



報道が教えてくれないアメリカ弱者革命
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報道が教えてくれないアメリカ弱者革命

堤未果【著】
新潮社(新潮文庫)刊
2010(平成22)年11月発行

米国の威信が失墜したなどと喧伝され始めてから久しいですが、それでもなほ「唯一の超大国」「世界の警察」としての存在感は保つてゐるものだと、何となく思つてゐました。
しかし『報道が教えてくれないアメリカ弱者革命』を読みますと、いかに米国人自身が疲弊し、迷走してゐるのかが分かります。事情通ならとつくに知つてゐることなのでせうが、無知なわたくしは初めて知ることも多いのです。書名にもあるやうに、報道されぬ事項が多すぎることもあります。

飢餓人口が4200万人とか、医療保険未加入(貧困の為)が4700万人とか、乳児が一日平均77人死んでゐるとか......およそ先進国とは思へない数字が次々と出てきます。
著者の堤未果さんは、あの同時多発テロ事件(いはゆる「9・11」)を目撃(たまたま隣のビルで勤務中だつたさうです)し、それ以後「テロとの戦ひ」に突入してゆく米国の暴走ぶりを目の当たりにした人。『ルポ貧困大陸アメリカ』などといふ著書もあり、この国の貧困層と呼ばれる人たちを精力的に取材してゐます。

2004年大統領選(共和党ブッシュ×民主党ケリー)にて導入される電子投票に反対して、55日間もハンストを続けた青年がゐました。彼は堤さんに、強引に自分を取材するやうに仕向けるのでした。米国のメディアはコントロールされてゐる。ならば外国のメディアに期待するしかない。
前回2000年の選挙(共和党ブッシュ×民主党ゴア)でも電子投票は一部で導入されたのですが、機械の信頼性に大きな問題があるのださうです。フロリダ州では、ブッシュにプラス4000票、ゴアにマイナス(!)16000票入るといふ間違ひがあつたとか。しかも再集計の必要なしと判断されたと。この機械の製造元会社のCEOが熱心な共和党支持者であることも疑惑を呼ぶ材料ですな。

結局ハンストもむなしく、2004年もブッシュが再選されました。しかし出口調査ではケリー有利でした。かうした逆転現象は、2000年でもあつたさうです。そして電子投票機は、やはり各地でトラブル続き(予定通りか?)であつたと。ある投票所では「ケリー」を選択しても、必ず「ブッシュに投票でいいですね?」と画面に出る不具合があり、それは最後まで放置されたとか。
また、機械の絶対数が足りないため、投票まで6時間待たされたとか、犯罪歴(スピード違反)があるから投票出来ないとか、8時間待たされた挙句、機械に不具合があるから投票出来ないと断られたり......ケリー支持の多い黒人居住区や貧困層が多い地域の話です。
ううむ、どこかの独裁国家の話みたいですね。先進国で起きてゐるとは、俄には信じ難いのですが、色色信じられない事が起きるのも米国であります。

また、米国の徴兵制の実態もルポしてゐます。向学の志があるのに、貧困ゆゑ大学進学を諦めざるを得ない層が、リクルーターと呼ばれる勧誘員の言葉巧みな甘言により徴兵に応じます。学費は軍が出すとか、実際には前線での戦闘はしないとか、卒業後のバラ色の進路とか。
しかし実際は、かういふ若者たちが真先にイラクへ派兵されて、人間扱ひされぬ殺人マシーンとして消耗させられるのでした。
それでも堤未果さんは、絶望することなく、まだこの国には希望があると諦めてゐません。ポジティヴであります。「革命を起こすのはいつでも弱者だ」といふ、黒人女子高生の言葉を紹介して。

現在行われてゐる次期大統領争ひでも、格差解消を訴へるサンダース氏が最後まで若者たちの間で人気を保つてゐたのも、問題発言だらけのトランプ氏が共和党の候補として残つたのも、米国に漂ふ閉塞感のやうなものを打破して欲しいとの願ひがあるのでせうかね。ただ、こんな時は「ヒトラー」が出現しやすい。日本でも要注意ですよ。
デハ今日はこんなところで、ご無礼いたします。



ミッドナイト
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ミッドナイト<全4巻>

手塚治虫【著】
秋田書店(秋田文庫)刊
1998(平成10)年2月発行(第1巻)

8月5日のタクシーの日に合せて『ミッドナイト』を登場させやうとしたのですが、既に4日も過ぎてゐましたね。相変らずにすいわたくしであります。

ミッドナイトは、その名の通り深夜専門のタクシー運転手。本名は三戸真也で、これまた深夜にかけてゐるのでせうか。
夜の帳がおりる頃現れ、夜明けとともに去つてゆく。タクシー会社に属さず、個人タクシーでもない、無認可の営業、即ちモグリのタクシーなのであります。
元は暴走族でしたが、恋人のマリが交通事故により脳死状態となつてしまひ、その治療費を稼ぐためにタクシー運転手に転身したといふ経歴。そのせいかぶつきらばうで、ガサツな性格、口は悪く近距離の乗客をゴミ呼ばはり、乗車拒否は当り前なのです。
何だ、いいとこ無いぢやん、こんな主人公で感情移入出来るの?と思ふかも知れませんが、根は善人なのです。といふか、底抜けのお人よしであります。そして、何よりも「命」を大切にする青年。

一話読み切り形式ですが、毎回冒頭に「夜はいろいろな 顔をもっている その顔を ひとつひとつ のぞいていく男がいる その名を ミッドナイト」といふ文章が入ります。ドラマでいふと、ナレーションですかな。
その夜の顔をのぞくミッドナイトは、ワケアリの客を乗せ、その身の上を知るが最後、知らんぷり出来ぬのであります。そのせいで危険な目に遭つたり、大変なとばつちりを被ることもしばしばなのです。
やりきれぬ最後になることもあれば、心温まる結末に気持ちよく夜明けとともに去ることも。

実は手塚治虫作品はどちらかといふと苦手な方なのですが(どうも神格化されるやうな人は敬遠したいタチです)、『ブラック・ジャックBJ)』は昔から好きで、BJ好きなら必ず気に入ると言はれて読んだのですが、全くその通りでした。さういへばBJ本人もこの漫画に何回か登場します。初登場時の、このふたりのやり取りが面白い。

ミッドナイト「金でなんでもやってくれる先生ってあんたですか」
ブラック・ジャック「金さえ積みゃなんでもなおしてくれると思い込んでるバカはお前さんかい」

まるでBJ外伝版みたいな雰囲気さへ漂ふのであります。

そして衝撃の最終回。あまりにショッキングな展開の為、「チャンピオン」連載時や、最初の単行本(チャンピオンコミックス版)では掲載が見送られたさうです。勿論ここで取り上げる秋田文庫版では収録されてゐます。ここでもBJが大活躍しますが、なるほどこれでは賛否両論といふか、当時としては否の意見が多くなつたのではないかと推察されます。まあ、今となつては、これもありかなとは思ひますが、リアルタイムで読んでゐた読者にとつては、やはりイムパクトが強すぎると申せませう。

数多くの有名作品を有する手塚治虫氏にとつては、小品に属するかも知れませんが、もし古本屋ででも見かけたら、読んでやつてくださいな。ではまた。