源氏川苦心の快楽書肆
古い本を探しては読みふけつてゐます。よければお付き合ひくださいな。
墜落遺体
無題

墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便

飯塚訓【著】
講談社(講談社+α文庫)刊
2001(平成13)年4月発行

あれから30年。今年は何かと「○○から何十年」が多いですが、日航機事故からもうそんなに経過したのかと、驚きを禁じ得ません。

1985(昭和60)年8月12日。あの日は本当に暑い日でした。わたくしども家族は、父親の郷里である鹿児島県を目指してゐました。一行は飛行機で行く訳ですが、わたくしは飛行機よりも汽車が好きなので、一人別行動でブルートレイン「富士」の客となつてゐました。時間がかかり過ぎるので一日早く出発し、翌日現地で落合ふことになつてゐたのです。
わたくしは予定通り宮崎で「富士」を降り(当時は宮崎止)、日豊線で都城へ、志布志線で志布志へ、更に大隅線に乗換へて目的地の吾平で下車しました。鹿児島県肝属郡吾平町(現在は鹿屋市に編入されてゐます)。吾平は「ごへい」ではなく「あいら」と読む難読地名であります。

吾平駅は有人駅で、若い駅員が地元の人たちの話相手をしてゐました。そこで会話を盗み聞ぎしてゐると、どうやらどこぞで飛行機の墜落事故があつたらしい。飛行機で移動した家族の事がちらと頭を霞めましたが、その場は聞き流してゐました。ところが、集合場所へ行つてみても、既に到着してゐる筈の家族がゐないではありませんか。現地の親族に連絡を取つても、「まだ来てゐない」との返事。この時は首筋に冷たいものを感じ、急に不安に苛まれたのであります。今と違ひスマホですぐニュースを確認することなど出来ないので、焦燥感は募るばかり。
実際には約一時間後に家族は到着し、胸をなでおろした次第。空港で色色買物をし、時間を喰つてしまつたらしいのです。
その夜、親戚宅のテレビで改めて事故の詳細を知つた訳であります。

個人的な事を語り過ぎました。『墜落遺体』の件です。
発行時に大変な反響を呼んだので、本書をご存知の方も多いでせう。この歴史的事故の犠牲者は520名。その遺体の身元確認の責任者として捜査にあたつたのが、著者の飯塚訓でした。したがつて本書には日航機事故に関する詳細な経緯や事故原因の考察などは出てきません。ひたすら「遺体」に関する記録であります。

520の遺体のうち、五体満足で残されたのはほんの一握りで、そのほとんどは切断されてゐたさうです。中には、腹の皮一枚で辛うじて上下半身が繋がつてゐた遺体も。それらのバラバラ遺体をすべて身元確認し、可能な限り人体の形に復元する。その上で遺族に引き渡すといふ手順。無論この作業は尋常ならざる困難さを伴ひます。

何よりも時間との戦ひ。ただでさへ猛暑の時季。遺体は腐乱が進みます。猛烈な悪臭。蛆が湧きます。発見時、既に半ば白骨化してゐる遺体すらあつたさうです。年齢性別も不明な遺体が多く、血液型を調べるなどして時間がかかつてしまふ。遺族とのいざこざも起きます。責任を感じた日航側も、良かれと思つて手や口を出すが、それが却つて足を引張る結果になつたりします。

現場の警察官、医者、看護師はこの戦場で127日間、戦ひ続けました。皆がそれぞれの立場で、最後の一人に至るまで真摯に遺体に向き合つたのです。携つた方々には頭が下がりますが、責任者にして本書の記録者、飯塚氏は本当に社会的意義のある仕事をされたと思ひます。この記録は風化させてはならぬと考へ、30年の節目にここに取り上げる次第であります。
出来るだけ多くの人が目を通されんことを望み、本日はご無礼いたします。



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