源氏川苦心の快楽書肆
古い本を探しては読みふけつてゐます。よければお付き合ひくださいな。
散るぞ悲しき
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散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道

梯久美子【著】
新潮社(新潮文庫)刊
2008(平成20)年8月発行

戦記はあまり読まない方でありますが、本書は硫黄島の戦ひの経緯よりも、総指揮官であるところの栗林忠道の人物に焦点を当てたらしいといふことで手に取りました。

さる事情から栗林忠道に興味を持つた著者は、かつて栗林に仕へてゐた軍属の一人に取材を試みます。そこで判明したことは、栗林が大本営に宛てた「決別電報」が、本人が書いたものと発表されたものが違つてゐた、といふことです。
徒手空拳」といふ、栗林の無念を伝へる言葉が削除されてゐたり、逆に原文には無い「壮烈なる総攻撃」などの、勇ましいフレイズが数か所に挿入されてゐたのであります。
加之、辞世の歌の一つ「国の為重きつとめを果し得で矢弾尽き果て散るぞ悲しき」の最後の部分が、「散るぞ口惜し」と改変されてゐました。

大本営としては、「悲しき」とは何と女々しいことよ、こんな士気に関はる言葉を公にする訳にはいかぬ、といふところでせう。しかし、「悲しき」としか表現し得なかつた栗林中将の心根はもつと複雑なものでした。
著者の梯久美子氏は、かういふ栗林中将の人間性に興味を持ち、この一冊を世に問ふことになつたさうです。

そもそも栗林中将が硫黄島へ赴いたのが1944(昭和19)年の6月のこと。既に戦況は厳しく、着任を命じた東條英機も、「アッツ島のようにやつてくれ」と栗林に告げたさうです。即ち、壮絶な玉砕を遂げよ、といふことですな。
もはや米国との戦力差は誰の目にも明らかになり、硫黄島でも、敵に勝つことを期待してはゐませんでした。ただ一点、米軍の本土上陸を少しでも遅らせるために踏ん張つてもらひたい。即ち、最後の一人になつても退却せず戦死するまでそこに踏み止まれ、といふことであります。

かういふ任務を帯びた指揮官の心中とは如何なるものでせうか。とにかく、部下には「犬死」だけはさせまい、負けると分つてゐるいくさでも、必ず意味のある戦闘をさせやうと考へてゐたフシがあるやうです。
栗林中将は、ゲリラ戦に賭けます。戦略上の常套作戦となつてゐた「水際作戦」を廃し、地下に壕をめぐらし、奇襲攻撃で一人でも多くの敵兵を斃す。「特攻隊」精神の「バンザイ攻撃」はならぬと禁じます。水も食料も十分な兵器もない状態での戦闘。それはわたくしたちの想像を絶する凄惨さであつたに相違ありません。皆早く突撃して終りたかつたことでせう。
しかし兵士たちは栗林の指揮に従ひ、忠実に作戦を実行します。それまでの日本軍とは大きく違ふ作戦に、米軍も手を焼いたことが記録に残つてゐます。
結果、「あんな島は、三日で落とせる」と豪語した米軍の予想に大きく反し、36日間持ち堪へました。米兵も二万人以上の死傷者を出すなど、米軍としては予想以上の被害を出した訳です。
尚、栗林中将の最期については諸説あり、詳らかではないさうです。

さて、本書では栗林忠道が家族に宛てて書いた手紙が多数紹介されてゐます。これを見ますと、実に筆まめな人のやうですね。
妻に宛てた手紙の多くは、生活臭溢れるものが多くて、微笑ましくなるものもあります。「お勝手の下から吹き上げる風を防ぐ措置をしてきたかったのが残念です」とか。
「お勝手の風」については、かなり気掛かりだつたやうで、やり方を図示して「太郎(長男)にでも早速やらせるとよい」「それでもできない間は、悪い薄べりを二つ折りにして敷くか「ルービングペーパー」(防空壕に使った余りが物置に少しあるはず)を適当の大きさに切って敷くもよかろう。ただしルービングはあまり長持ちはすまいと思う
風呂を入れるについては、「二晩つづけて立てる場合は、最初の晩の上がり際に、湯の中に手腕をすっかり入れて一方向に勢いよくグルグル回し、湯をシッカリ、コマのように廻し、そこへ洗面器をほうり込むと、洗面器も湯の中で沈みますが、その時湯垢を奇妙に吸い取ります(その洗面器は翌朝取り上げる)。やってみたらいいでしょう

つひ引用してしまひましたが、硫黄島の過酷な境遇の中で、お勝手や風呂の心配をしてゐます。また、とりわけ娘(たか子)に対しては、たこちやん、たこちやんと気を遣ふ。もしも戦争がなければ、子煩悩なマイホームパパとして、家族に幸福を与へられたのではと、残念に思ふところです。否、本来なら幸せな家庭を築けた人が、このいくさによつて、その夢を絶たれたといふ例は山ほどあるでせう。

軍人としては精神主義を廃し合理的な考へを貫き、市井人としては良き夫、父として家庭を顧みる。本書の筆致は、或は理想化し過ぎてゐるかも知れません。情緒的に流れてゐるかも知れません。
さはさりながら、栗林忠道といふ人物を広く世に知らしめた功績大の一冊と申せまう。


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