源氏川苦心の快楽書肆
古い本を探しては読みふけつてゐます。よければお付き合ひくださいな。
発想法
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発想法 リソースフル人間のすすめ

渡部昇一【著】
講談社(講談社現代新書)刊
1981(昭和56)年11月発行

先達て逝去された渡部昇一氏であります。紹介される時には、枕詞のやうに「保守派の論客」といふ謳ひ文句が付く人で、色色と発言が問題視されたこともございます。わたくしは中高生の頃、本多勝一氏の著書を読み耽つてゐた為、それと対極に立つ渡部氏の言葉には素直に首肯しかねる事が多かつたのです。
それにもかかはらず、何故か渡部教授の文章が目に留まると、無視できぬといつた存在でした。不思議ですねえ。

専門が英語学である渡部氏の代表的な著作は何か、わたくしは存じませんが、一番売れたのは『知的生活の方法』ではないでせうか。わたくしも当時、続篇と併せて拝読したものです。
しかし天邪鬼なわたくしは、ここで『発想法―リソースフル人間のすすめ』を登場させる訳です。1981(昭和56)年、千代の富士の「ウルフフィーヴァー」の年に刊行されてゐます。当時渡部氏は51歳、もつとも脂の乗り切つた時期ではありますまいか。

サブタイトルにある「リソースフル」とは何か。表紙の言葉を引くと―

リソースフル(resourceful)とは、発想の豊かさを表わす言葉である。語源的には「再び立ち上がる」「再び湧き出す」ということだが、転じて、どんな状況においてもアイデアが出てくること、つまりは、「汲めども尽きぬ知恵の泉(ソース)」をもつことである。リソースフルであるためには……、より深く豊かな泉をより多く身につけるには、どうすればよいのだろうか。まずなによりも、発想の源は自分自身の内部にある。みずからの独自で切実な体験を直視し、忘れず、みがきあげることを土台に、貴重な泉としての外国語習得、新鮮な目をもつこと、幅広い耳学問など、思いつきではない、柔軟な発想を生むための心がまえと方法を説く。

なのださうです。

例へば、森鷗外と坪内逍遥の論争を引き合ひに出します。「没理想論争」と称するさうですが、その詳細はしかるべき文献に当つていただくとして、この論争は世間的には鷗外の勝ちとみなされてゐるさうです。その理由を、逍遥は英語一本だつたのに対し、鷗外はそれに加へて、ドイツ語も出来たからだと著者は推測します。当時は外国語の文献にどれだけ当つたかで勝負が決まるやうなところがありました。即ち鷗外の方が井戸(泉)が多く、枯れ難い環境にあつたと。

葛西善蔵や嘉村磯多のやうな人は、寡作に終つた人たちですが、何しろ水を汲むべき井戸が自分一本しかない。小説を書くための取材や調査をする訳でもなく、外国の文献に当らず、机に向かひ自分の事をうんうん唸りながら書くだけであるので、全くリソースフルではないと論じます。
一方、泉の豊かな作家として、松本清張や夏目漱石を挙げてゐます。両者とも、泉が溢れんばかりの書きつぷりであると。さらに谷崎潤一郎と江戸川乱歩(いづれも「大」が頭につく人ですね)を対比させて、いかに井戸の数が多かつたかを示してゐます。

井戸といへども、際限なく水を汲み上げてゐては、いつかは枯れます。そこで第一の井戸が枯れる前に、第二の井戸、それも枯れさうになれば第三の井戸から汲み上げ、さうかうするうちに第一の井戸は再び水量が戻つてくるであらう、と。即ちその井戸の多さがリソースフルであるか否かの目安なのですね。

それにはまづ「異質な目」を養ふ事が肝要だと。先天的な、生れた環境が否応なしに異質な目を作ることもあり、後天的な努力や発想(不幸な体験も、逆説的に言へば「異質な目」を得るチャンスだといふ)で、井戸の数を増やすことも可能でせう。
終章では「天からの発想・地からの発想」と題して、オカルト的な現象からの発想を説いてゐます。本書の中では若干浮いてゐますが、後年渡部氏は精神世界関連の著作も物してゐますので、今から思へば特段訝しがることもございません。

ところどころに「さうかなあ」と首を傾げる記述もありながら、全体として力強いメッセージを受け取つたと感じられます。のんべんだらりと暮す自分がまことに愚劣な存在に(事実さうでせうが)思へてくる、ちよつと尻を叩かれてゐるやうな気分になる一冊と申せませう。合掌。


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