源氏川苦心の快楽書肆
古い本を探しては読みふけつてゐます。よければお付き合ひくださいな。
整理学
整理学―忙しさからの解放 (中公新書 13)整理学―忙しさからの解放 (中公新書 13)
(1963/05)
加藤 秀俊

商品詳細を見る

整理学―忙しさからの解放
加藤秀俊【著】
中央公論新社(中公新書)刊
1963(昭和38)年5月発行


この本が書かれた昭和38年とは、翌年に東京オリムピックを控へ、日本中が沸き立つてゐた頃。わたくしはまだ生まれてゐませんが。
高度成長の真つ只中で、当然経済活動も活発化し、情報も無差別に飛び交ひはじめた、さういふ時代であります。
 
ひつきりなしに、問答無用で我が身を襲ふ資料や書類。特に当時は今のやうに「ペーパーレス」なんて概念はほとんどなかつたでせうから、紙の洪水の中で仕事をしてゐたのでせう。
当時のサラリーマン映画やドラマの中で、上司が部下に「これ、明日までに頼むよ」などと言つて、山のやうな書類をドスン!と机に乗せるシーンがしばしば見られました。いはば紙の量=仕事量で、多忙な人ほど、その整理の必要性が高まつてゐたのです。

そんな時代背景の下、著者と友人たちとの雑談の中で、「整理学」なる造語が誕生します。
言い出しつぺは誰なのか判然としないさうですが、まあそれはどうでもいい。とにかく、この夥しい量の資料をなんとかせんといかんね、といふ発想が当然出てきます。

そんな昔の話、現在のIT社会とやらに何の役にも立たんよ、と思ひますか。たぶんさうではないと、わたくしは勘考します。何故なら、本書では「記録」「分類」「いれもの」に注目してゐるのですが、これらは最新のメディアでもやはり重要なファクタアとなつてゐるからです。
そして、著者の次の言葉に象徴される、整理の「本質」は未来永劫変らないのではないでせうか。

「...あらゆる「整理」は暫定的なものである。(中略)「忙しさからの解放」といっても、ラクな解放感をうけとっていただいては困る。整理は、人間にとっての、楽しい、そして無限の苦役の一つなのだから」(「まえがき」より)

さう、整理は面倒くさいなあといふ面があるのと同時に、楽しみでもあります。本書でその楽しみ方も伝授して貰ひませう。

では御機嫌好う。

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村
現代フランス文学作家作品事典
2__.jpg

現代フランス文学作家作品事典
佐藤朔/白井浩司/若林真【編】
講談社(講談社学術文庫)刊
1981(昭和56)年11月発行


本書の指す「現代」とは、二十世紀以降のことらしい。確かに十九世紀仏文学といへば百花繚乱、世界を代表する文学者を多く輩出したのであります。
従つて十九世紀仏文学については、概観する書物も多く充実してゐるのですが、一方二十世紀(特に第二次大戦後)の仏文学については、単品はともかくそれを俯瞰するかたちで述べるものが目立ちません。
少なくともわたくしが学生であつた時分はさうでありました。

そこで本書。1981年の初版だから既に30年以上前なのですが、画期的な書物ですよ、これは。
実は仏文科学生だつたわたくしも本書を愛用してゐました。何かと重宝します。ユウスフル。
ロマン・ロランからル・クレジオまで何と75名の文学者を収録してゐます。堂堂928頁のヴォリューム。事典の名に相応しいと申せませう。

作家一人につき、その簡略な評伝、評価、そして代表作の梗概で構成されてゐます。この梗概がまた良く出来てゐる。編者の一人である佐藤朔氏も述べてゐるやうに、梗概を書くといふのは大変な作業でありませう。労作とはかかる書物のことを指すのでせう。

あたまから読んでも良いし、事典らしく必要な箇所をまづ引いてみるのもよろしからうと。巻末の参考文献や年表も嬉しい付録であります。
残念ながら現在は絶版。しかし入手方法はあると思はれるので、興味の有る向きは調べてみてください。自分でね。

現代フランス文学作家作品事典 (講談社学術文庫 (390))現代フランス文学作家作品事典 (講談社学術文庫 (390))
(1981/11)
佐藤 朔

商品詳細を見る

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村
文学入門
文学入門 (岩波新書 青版)文学入門 (岩波新書 青版)
(1950/05/05)
桑原 武夫

商品詳細を見る

文学入門
桑原武夫【著】
岩波書店(岩波新書)刊
1950(昭和25)年5月発行
1963(昭和38)年11月改版


『文学入門』。直球のタイトルであります。今時かういふ書名は、気恥づかしくて付けられないでせう。
昭和25年といふ、まだ戦後の混乱が続く時代を感じさせます。
なぜか。当時の文化人と呼ばれる人たちは、敗戦の責任の一端に、日本の文化が欧米に比して大きく遅れを取つてゐたことがあると感じてゐたらしい。文化国家を目指す日本としては、如何なる文学が必要か、啓蒙活動が必要だ...
戦後日本の、アジア軽視・欧米追従の姿勢はかういふ点も関係してゐるのでせう。

友人のS氏は「俺のバイブルだ」と評し、先輩のN氏は「つまらん本だ」と切り捨てた本書。ちよつと見てみませう。
第一章「なぜ文学は人生に必要か」では、文学の面白さを広く指す言葉として、「インタレスト」なる用語を多用します。作者が読者に迎合する面白さは低俗で、断じてインタレストではないさうです。
人生は合理性一辺倒では生きられず、人生に充実と感動を与へるものが必要だと説き、それが正にインタレストなのでせう。

第二章「すぐれた文学とはどういうものか」では、トルストイが提唱した藝術に不可欠な三要素「新しさ・誠実さ・明快さ」を借用し、桑原流文学論を展開します。ここでもインタレストといふ概念が比重の重さを占めてゐます。

第三章「大衆文学について」では、すぐれた文学が生産的・変革的・現実的であるのに対し、通俗文学は再生産的・温存的・観念的であるといふ。日本ではこの通俗文学がはびこり、それは出版社・作家・読者・批評家の共同責任であると述べます。この人は要するに、通俗文学が好きぢやないのですね。

第四章「文学は何を、どう読めばいいか」この題に反感を抱いた人は(わたくしもさうですが)、従来の日本の文学観に引き摺られてゐるからださうです。ふうん。巻末の「世界近代小説五十篇」は、作者なりの回答なのでせう。俳句や短歌に対する評価の低さは気になります。

第五章「『アンナ・カレーニナ』読書会」は、まあ第四章の実践篇と申せませうか。恥づかしながら、わたくしは『アンナ・カレーニナ』を読んでませんので、発言内容についていけないところもありますが...K先生の自身たつぷりな語り口は絶品ですな。

文学入門といふよりも、日本の文学はかうあるべきだといふ提言を込めた、桑原武夫氏による文学評論ですかな。特に第一章・第二章には卓見が多く含まれ、現在も版を重ねる理由が分からうといふところです。

ぢや、ご無礼します。

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村
恋と革命
index_20141013221542cd9.jpeg

恋と革命―評伝・太宰治
堤重久【著】
講談社(講談社現代新書)刊
1973(昭和48)年8月発行


著者は太宰治の弟子・友人としてその晩年を見届けました。弟は東宝俳優の堤康久さんで、特撮映画で活躍した人。なるほどさすが兄弟だけあつて、顔もよく似てゐます。

太宰治といふ作家はまことに不思議な存在であります。
資産家に生まれながら実父、次いで長兄に反抗する。成績優秀なのに放蕩を繰り返し、実家から仕送りを受ける身でありながら期待を裏切る。
普通なら世間知らずの甘つたれとして黙殺されるのが関の山でせう。しかしその作品は没後60年を超えてなほ愛読されてゐます。

堤重久さんは、太宰が生母から冷たい扱ひを受けてゐたことを重要視しました。母の愛情に飢ゑてゐたからこそ、その代替を叔母や子守に求め、彼女らも受け入れたと。そして道化(おどけ)の性向も、大家族の中でオズカスと呼ばれる目立たない自分が、何とか母親に注目されたいといふ、愛の渇きからきてゐるのだと。
他の人に言はれると、「まるで見て来たやうに言ひやがつて」と鼻白むのですが、堤重久さんの場合は「ははあ、さういふものですか」と納得するしかありません。

さらに、太宰と言へば自己憐憫とか弱さとかが強調されますが、それは太宰の作り出したポーズであるのださうです。精神的な強さ・男つぽさを併せ持つのですが、さういふ面は隠すのであります。さういへば「如是我聞」で、強いことは恥ぢるべきもので、もつと弱くなれと書いてゐた気がします。うろ覚えですが。
人間は恋と革命のために生れてきたのだ、と『斜陽』の人物に言はせ、その生き方を実践してきた太宰。
やはり強靭な精神力と意志を持つた男だつたのだな、といふ読後感が残るのであります。
力作。しかし絶版。残念。

日本文学を読む
日本文学を読む (新潮選書)日本文学を読む (新潮選書)
(1977/11)
ドナルド・キーン

商品詳細を見る

日本文学を読む
ドナルド・キーン【著】
新潮社(新潮選書)刊
1977(昭和52)年11月発行


以前我が家には新潮社の「日本現代文学全集」全50巻がありました。
父親はとりたてて読書家ではないので、なぜ家にあつたのかは謎でありますが、おそらく誰かから譲り受けたものでせう。
くたばつてしめへ、ではなく二葉亭四迷から始まつて、安部公房・大江健三郎まで、おほむね一人1冊で構成されてゐました。まあ2-3人で1冊分けあつたり、谷崎潤一郎のやうに一人で2冊独占したりと例外はありましたが。
まだ中学生の私は、とにかく頭から読んでみませうと齧り付くやうに格闘した覚えがあります。かなり背伸びをしたと申せませう。

ドナルド・キーン著『日本文学を読む』を読んでゐて、当時のことを思ひ出したのであります。
とりあげる作家たちの顔ぶれも四迷・紅葉・露伴に始まり安部・大江・開高までとほぼ同じ。さういへば本書の初版が出た時期もちやうどその頃ですな。

ドナルド・キーン氏が約50人の文学者を語ります。自身が日本人ではないといふことで、時に誤解を受けたりするやうですが、専門家も含めて日本人でもキーン氏ほどの眼力を持つ人は少ないでせう。
酷評する場合も、全体としてはその価値を認め、愛情を注いでゐます。ゆゑに自分の好きな作家・作品が貶されてゐても不愉快にならないのであります。

こんなに鏡花の小説にほれている私に、「翻訳する意思はないか」と問われたら、返事は簡単である。「とんでもない、この快感を得るために三十年前から日本語を勉強したのではないか」と。」(泉鏡花)
日本近代文学を通読すると、私は啄木が最初の現代人であったというような気がしてならない」(石川啄木)
誰かに聞かれたら、近代文学における最高の大家は谷崎であると敢えて言うだろう」(谷崎潤一郎)
明治、大正時代の日本の小説の中で、一番感銘を受けるものは有島武郎の『或る女』である」(有島武郎)
二十世紀の歌人がどんな人であったかということを火星人に説明する必要が起きたら、斎藤茂吉の歌集を見せたらよいと思う」(斎藤茂吉)
日本の詩人がノーベル文学賞の候補者になることはない。(中略)西脇順三郎はすでに受賞した欧米の詩人に劣らないほど大きな存在だと私は信ずる」(西脇順三郎)

等等、世間の一般的評価を受け入れながらも、独自の視点で「日本文学を読む」のでした。
我々日本人はこんなに豊かな文学世界を身近に持つてゐたのですね。改めて読みたくなる作家が幾人もゐて困りましたな。