源氏川苦心の快楽書肆
古い本を探しては読みふけつてゐます。よければお付き合ひくださいな。
平安鎌倉史紀行
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平安鎌倉史紀行

宮脇俊三【著】
講談社(講談社文庫)刊
1997(平成9)年12月発行

古代史紀行』に続く、「日本通史の旅」シリイズ第二弾であります。
日本史の流れに沿ひ史跡や歴史上の人物のゆかりの地などを巡る企画で、今回は長岡京遷都から鎌倉幕府の滅亡までを辿ります。即ち『平安鎌倉史紀行』といふ訳。

古代史では歴史と神話の境界線があやふやで、従つて素人も色色と妄想する愉しみがあつたのですが、平安鎌倉となると文献も揃ひ始め、歴史の形が次第にはつきりとしてきました。宮脇氏も、あまり気の進まぬ事件や好まぬ人物がゐるやうですが、さうも言つてをられず、せつせと現地へ向かひます。

あくまでも歴史の流れ順に訪問する為、同じ場所に何度も足を運びます。一見無駄足のやうに見え、交通費も嵩むのですが、著者は何度も旅行出来て嬉しいと全く意に介さないのが愉快であります。
なるべく鉄道やバスで移動したいと言ひながら、タクシーをやたらと駆使します。史跡巡りにはその方が便利だからですね。運転手から地元ならではの情報も仕入れる事もできます。

日本史を繙くとどうしても京都が中心になりがちなところを(実際京都は何度も行つてゐますが)、少しでも変化を付けやうとする姿勢も読者思ひでよろしい。平泉・鎌倉・熊野・比叡山・水海道・日振島(愛媛県・藤原純友を巡る旅)・黒田庄・福原(神戸)・厳島・木曾宮ノ越・一ノ谷・壇ノ浦・美濃太田・永平寺等等。さすがに蒙古襲来の項では、モンゴルまでは行つてませんが。それにしてもこの蒙古軍といふのは、知れば知る程腹が立つのであります。某国なら千年恨みは忘れないと喚く事間違ひなしですな。

武士が擡頭し、新田義貞軍が北条高時を追ひつめ、鎌倉幕府が滅亡したところで本書は一旦終ります。ああ早く続きを読みたい喃。日本史のおさらひにもなつて、まことに愉快な一冊となのでございます。


塩狩峠
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塩狩峠

三浦綾子【著】
新潮社(新潮文庫)刊
1973(昭和48)年5月発行

永野信夫くんは、厳格な祖母と温厚な父と一緒に暮してゐました。母親は信夫を生んですぐに亡くなつたと聞かされてゐます。やがて、思ひがけなく祖母が急死し、同時に見知らぬ女性と女の子が家にやつてきました。実の母と妹であります。
実は母はクリスト教徒で、ヤソを嫌ふ祖母に家から追ひ出されてゐたのでした。信仰を捨てる事は出来ず、夫と息子との別居生活を選んだのであります。しかしその祖母が急逝したため、戻つて来た訳ですな。

祖母の影響もあつて、信夫は中中クリスト教に馴染むことができません。食事の時、父・母・妹がお祈りをするのに、自分だけしないので、疎外感を抱いたりします。しかし、成長するに従ひ、様々な人たちとの出会ひもあつて、クリスト教への抵抗感は徐々に薄れていくやうに見えました。

友人吉川の後を追ふやうに、信夫は北海道へ渡ります。鉄道職員として活躍する一方、吉川の妹ふじ子への愛情を募らせるのであります。上司から娘を貰つてくれと頼まれ断るのですが、それをきつかけに、ふじ子を愛してゐたことを認識するのです。病弱だつたふじ子ですが、信夫の看病の甲斐もあり病状は好転し、二人は結納の日取りを決める段階まできたのですが、運命は残酷でありました......

クリスト教徒向けの雑誌に連載されたこともあり、初めて読んだ時には「クリスト教の宣伝小説かな」と思つたものです。祖母がいかにも愚かしく悪い存在に書かれてゐるやうな気がして、それも違和感があつたのです。
しかし再読しますと、畢竟人は如何に生きるかを問ふ物語だと感じた次第であります。信仰はひとつの道具とでも言ひますか。まあわたくしは、自分に危害を加へる人物の事を「彼をお許しください」などとは思はないし、右の頬を打たれたら左を差し出す度量もございませんがね。

モデルとなつた長野政雄氏の自己犠牲は、信仰の為の結果かどうかは分かりませんが、これはノンフィクションではなく、あくまでも実際の事件を基にした純然たる小説であります。長野氏の死を美化するなといふ批判があるさうですが、自殺説、操作ミス説、覚悟の死説のいづれが事実であるにせよ、警察の捜査ではないのですから、小説の設定は作者に委ねられて当然と申せませう。

感動する人は感動するし、辟易する人はやはり辟易する。人付き合ひも読書も同様ですな。



一人ならじ
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一人ならじ

山本周五郎【著】
新潮社(新潮文庫)刊
1980(昭和55)年2月発行

今年は、山本周五郎の没後50年に当ります。
この人の作品は映像化されたものが多いのですが、そのどれもがわたくしの好みではないのです。それで何となく原典からも遠ざかり勝ちになりますが、実際に作品を読むと素晴らしいのであります。映画やドラマになればなるだけ、却つて新たな読者が減るやうな気がするのはわたくしだけでせうか。

有名な作品はたくさんあるけれど、ここでは何となく『一人ならじ』。いちにんならじと読みます。
全14篇の短篇小説が収録されてをります。発表時期は昭和15~32年にわたりますが、そのほとんどは戦前・戦中に集中してゐます。
その内容は、封建的な武士世界の厳しい社会を背景に、己の信念に生きる人たちを描いてゐます。中中良い。

まづ「三十二刻」の宇女。嫁ぎ先の舅から冷たい仕打ちを受けながら、戦において非凡な対応を見せます。ちよつと出来過ぎ。
「殉死」における八島主馬と福尾庄兵衛。殉死を禁じられた中、主君の死に際して二人は対照的な行動をとります。わたくしは八島の現実的な選択を支持したい。
「夏草戦記」では、立番を離れたらいかなる理由でも死罪、との掟の中、三瀬新九郎は敵方に情報を流す裏切者を討つ為に持ち場を離れます。結果多くの味方の生命を救ふのですが(本来なら殊勲者)、それを語る事無く死罪を受け入れるのです。
「薯粥」は我が隣市の岡崎が舞台。十時隼人なる剣豪が登場しますが、少し理想化し過ぎかも。
「石ころ」の多田新蔵に、妻の松尾は結婚当初失望してゐました。しかし新蔵には隠された真の姿があつた。
「兵法者」における水戸光圀は、後年自ら語るやうに残酷だと思ひますよ。
「一人ならじ」の栃木大介は、犠牲的精神からいくさの最中に片足を失ひます。しかし周囲からは大して評価されませんでした。なぜか......? さすがに、表題にもなるくらゐの作品であります。派手ではないが読後にじわじわと味はひが広がります。
「柘榴」における真沙は、新婚時代、その若さゆゑに夫の本質を見抜けなかつたと反省してゐますが、柘榴を新妻に例へる夫はやはり気持ち悪い。
「青嵐」の登女は、夫に隠し子がゐると未知の女から告げられ、その疑惑を夫に問ふこともできずに、子供の世話をみます。いささか現実離れした対応ですが、その結果、最終的に夫婦の結束は強まることになりました。
「茶摘は八十八夜から始まる」も岡崎もの。領主の不行状を改める為、水野平三郎は相伴役を申し出ます。実は水野自身も放蕩生活から逃れられず、自分を戒めるつもりで願ひ出たのでした。その結果、どうなつたのか......?
「花の位置」のみ時代が違ひ、太平洋戦争末期の東京が舞台。発表されたのも正に昭和20年3月。この時代にも目が曇る事無く、かくも冷静に庶民の戦争に対する思ひを活写してゐます。

本書は必ずしも作者の代表作とか有名な作品といふ訳ではありませんが、いづれも水準以上の出来栄と存じます。やはりヤマシュウ、只者ではないな。
出来過ぎのストーリィに、人によつては修身の教科書みたいだと鼻白むかも知れませんけどね。ぢやあまた。


古代史紀行
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古代史紀行

宮脇俊三【著】
講談社(講談社文庫)刊
1994(平成6)年9月発行

宮脇俊三氏の最晩年のライフワーク、「日本通史の旅」であります。
もう鉄道紀行は日本全国色々な切り口から書き尽くし、海外もアジア・北南米・欧州と目ぼしいところは乗りまくつた。次いで「廃線紀行」を一つの主要ジャンルとして確立し、さらに宮脇氏の得意分野「歴史」をからめた紀行文が誕生した訳です。
宮脇氏はかつて『徳川家康歴史紀行5000キロ』なる著作を世に問ふた事があり、その際に「歴史紀行」の面白さに目覚めたのではないかと愚考してゐます。

従来の鉄道紀行とは違ひ、あくまでも歴史の流れに沿ふので、同じ土地を時代別に何度も訪れたり、かつては乗り鉄一辺倒だつたのが、名所旧跡を中心に回る旅になるのでした。歴史遺構が鉄道沿線にあるとは限らず、否むしろ駅から遠く離れた場所に点在することが珍しくないのです。
従つて移動手段には鉄道に拘らず、バスやタクシー、徒歩など様様であります。特にタクシー利用率は高く、長距離でも躊躇ふことなく乗りまくつてゐます。当つた運転手はさぞほくほくでせう。

文献に現れる最初の地として、まづ対馬から旅は始まります。むろん出雲や北九州など古代史ゆかりの場所も訪れますが、何と言つても畿内が中心となります。さらに百済国を訪ねて韓国へ、遣唐使を偲んで上海へ、海外へも出かけます。
著者も述べるやうに、古代史は史実と伝説がない交ぜになり、想像力を掻き立てられる余地が多く、素人でも議論に加はりやすい。事実が分かつてゐないのだから、言葉は悪いですが好き勝手な想像もできるのです。

本来ならサクッと終る筈だつた「日本通史の旅」ですが、予定外に長期連載となり、とりあへず奈良時代の終焉までを『古代史紀行』として刊行したのであります。読者としても、長く宮脇氏の文章を読めるのは望むところ。個人的には、せめて明治維新あたりまで続けて欲しかつたのですが......



六番目の小夜子
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六番目の小夜子

恩田陸【著】
新潮社(新潮文庫)刊
2001(平成13)年1月発行

恩田陸さんが直木賞を受賞したといふ事で、デビユ作の『六番目の小夜子』登場であります。「幻の」とか「伝説の」などといふ冠が付く本作。何故だらうと思つてゐたら、著者自身が「あとがき」で説明してゐました。なある。
直木賞は、かつての新人発掘の意義はなくなり、今やすつかり中堅作家(時には大ヴェテランも)が受賞する文学賞になつてしまひました。恩田陸さんもデビユしてから、25年くらゐ経つのではないでせうか。まあ別段どうでもいいけど。

小説の舞台はある地方の高等学校。結構な進学校とお見受けしました。この学校では「サヨコ伝説」なる言ひ伝へがあり、三年に一度「サヨコ」が選出されます。先代「サヨコ」の卒業式に、次の「サヨコ」にメッセージが届けられるのでした。その正体は、代々の「サヨコ」しか知りません。で、「サヨコ」のやることは、一年にたつたひとつだけ。
そしてこの物語は、「六番目のサヨコ」の年の始業式に始まるのであります......うん、何だか面白さうぢやないかと期待させます。

物語の視点は固定されず、舞台となるクラスにゐる関根秋・花宮雅子・唐沢由紀夫らによる群像劇と申せませうか。そもそも「プロローグ」を語る「私」とは結局誰の事か、最後まで分からなかつた喃。そのクラスに、「津村沙世子」なる転校生がやつてきます。いつたい彼女は「サヨコ伝説」と関係が有るのか? 巻き込まれる形で「サヨコ伝説」に関はる事になつた関根秋は、友人設楽正浩とともに謎に迫るのですが......

お膳立ては中中凝つてゐます。「サヨコ伝説」の謎に迫る為に、設楽が計画した学園祭の「芝居」も興味深い展開であります。ここまで広がつた風呂敷をどのやうに収めるのか、気になるところです。読後の印象は悪くないし、まあ良かつたよね、といふ感じなのですが、疑問が疑問のまま終つてしまつた点が多いですな。
佐野美香子は付け火をした後どうなつたのか、津村沙世子は何故それを唆したのか、黒川先生の関与度はどれだけのものだつたのか、他にも色色と、何だかはつきりしないのであります。単にわたくしが重要な伏線とかを読み落としたのかなあ。
ま、いいや。デハ今日はご無礼いたします。