源氏川苦心の快楽書肆
古い本を探しては読みふけつてゐます。よければお付き合ひくださいな。
天ぷらにソースをかけますか?
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天ぷらにソースをかけますか? ニッポン食文化の境界線

野瀬泰申【著】
新潮社(新潮文庫)刊
2009(平成21)年1月発行


日本経済新聞社がウェブ上で連載した「食べ物 新日本奇行」(「紀行」ではないやうです)を書籍化した『全日本「食の方言」地図』を加筆改題の上、文庫化したのが本書であります。
食の方言とは言ひ得て妙で、元の表題の方が良いやうな気もしますが、まあそれはいい。土地によつて、食べる物が違ふのは当然の事だし、同じ物でも呼び名が違ふ事もあります。狭い日本なんてとんでもない!

本書の目新しさは、ウェブ上の連載といふ特質を活かし、読者と双方向の内容となつてゐることにあります。例へば表題にもなつてゐる「天ぷらにソースをかけるか」といふ設問には、掲載されるや否や、読者からのメールが続続と届いたさうです。最終的なVOTEの結果は、ソースをかける地区は西日本に集中してをり、従来ならば何となく語られてゐた事が、見事に視覚化されて、食の方言地図が一丁上がりとなる訳です。

他にも、「ぜんざい」か「お汁粉」か、「肉まん」か「豚まん」か、「冷やし中華」か「冷やしラーメン」か「冷風麺」か、「メロンパン」か「サンライズ」か、肉といへば「牛」か「豚」か「鶏」か.....等等、VOTEによる「日本地図」が次々と完成されていくのでした。ところで、わたくしにとつて、「サンライズ」は初耳でした。あと、「他人丼」の分布図も作成して欲しかつた喃。

最終章は、著者本人が東海道を歩いて旅をし、食文化の境界線を自らの足と目で確かめてゐます。新聞記者の血が疼くのか、やはり自分で取材をして初めて納得するのでせうか。
ここでは、「サンマーメン」(初めて聞いた)地帯、「白ネギ」と「黒ネギ」境界線、「イルカ」地帯、「米味噌/うどん」と「豆味噌/そば」境界線、うなぎを「背開き・蒸す」「腹開き・蒸さない」の境界線、「モーニング」地帯などを次々と認定していきます。そしてなぜか「灯油を入れるポリタンク」は赤か青か、の境界線まで調べてゐます。食文化とか関係ないですね。

郷土愛をくすぐり、野次馬的好奇心を満たす一冊で、ネット時代以前には考へられなかつた書物と申せませう。続篇みたいなものもあるやうなので、それも覗いてみます。デハデハ。




反哲学入門
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反哲学入門

木田元【著】
新潮社(新潮文庫)刊
2010(平成22)年5月発行


木田元氏は胃癌手術後の療養中に、新潮社の編集者に唆されて、口述筆記による哲学入門の本を出しました。それが本書『反哲学入門』であります。否、口述筆記といふよりインタヴューに答へたものを基に、編集者が原稿を作つたさうです。ゆゑに、本書の功績も欠点も、木田元先生と編集者が分かち合ふべき性質の書物と申せませう。

そもそも哲学とはどんな学問なのか、哲学者つて何を研究してゐるのか、改つて尋ねられて気の利いた返答が出来る人がどれだけゐるでせうか。須藤凜々花さんなら朝飯前でせうが。
わたくしなぞは「哲学」と聞くと、『ふたりと5人』といふ漫画に出てきた「哲学的先輩」を連想するし、ソクラテスといへば野坂昭如氏の「ソソソクラテスかプラトンか」をまづ思ひ浮かべます。

そんなレヴェルのわたくしにも理解できるやうに、優しく語り掛けてくれる本書(白状すれば、それでも解らぬ部分あり)。しかしなぜ『哲学入門』ではなく、「反」がつくのか。
木田氏は、哲学者でありながら哲学といふものを肯定的に捉へられぬと言ひます。本来哲学とは欧米人だけの思考法であり、日本人が理解出来ぬのは当然であると説きます。へえ。そして哲学の概念を日本に輸入した人たちにも原因があると。
「希哲学」と訳すべきフィロソフィーといふ言葉を、「哲学」としてしまつた。これは誤訳だと木田氏は断じます。また、metaphysicsの訳語として、「超自然学」とでもすればいいところを、なぜか「形而上学」と訳した。確かに分かりにくい訳語ですね。

ソクラテス、プラトンのギリシャからカント、ヘーゲルを経てニーチェに至る流れがある訳ですが、ニーチェといふのは、従来の西洋哲学(プラトニズムとニーチェは言ふ)を批判し、アンチフィロソフィー(反哲学)なる概念を生み出したと。従つてニーチェ以前と以後の「哲学」は同列に扱ふことは不適当であるさうです。
そして「二十世紀最大の哲学者」と著者がいふハイデガーについては、最後の第六章を丸ごと使つて解説します。ナチズムの思想と結びついた彼の主張は、実存主義ではなく「反ヒューマニズム」だと言ひます。

語り言葉ゆゑに解りやすい部分もありますが、逆に解りにくい要素もございまして、それは著者ご本人も認めるところであります。しかし西洋哲学の長く複雑な歴史を、僅か300頁の中に俯瞰してみせた力業には感服いたしました。
巻末に、読者に対する参考文献として、木田氏は自著を幾つか紹介してゐます。「書き言葉」による入門書も読んでみたくなつた次第であります。
デハまた。



雷電本紀
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雷電本紀

飯嶋和一【著】
小学館(小学館文庫)刊
2005(平成17)年7月発行


相撲界は相変らず問題続きで、ワイドショウの恰好の餌食となつてをります。では角界といふのは、昔は良くて最近急に駄目になつたのか。いやいやさうではありますまい。
例へば暴力問題。昔は「兄弟子はムリ偏に拳骨」と呼ばれたやうに、とにかく口より手が先に出る指導だと言はれてゐます。暴力の無い日はなかつたでせう。弟弟子は「なにくそ、今に見てをれ」と、歯を喰ひしばつて耐へたのであります。そして自分が兄弟子になると、「俺もかうして強くなつたのだ。これは後輩の為の愛のムチなのだ」と信じ込み、今度は後輩に鉄拳指導・制裁を加へるやうになるのでした。

当時は問題にもならなかつたでせう。しかし時代は暴力(体罰含む)否定であります。昔と比較すれば遥かに民主化された相撲部屋ですが、それでも一朝一夕に暴力根絶とは参りません。八角理事長は頑張つてゐるとは思ひますが、兎に角相撲協会憎しの逆風は強い。その反動で、世間はあの貴乃花親方を擁護したのでせう。しかしどう考へても協会より貴が悪い。白鵬ふうに言へば、本来子供でも分かる事なのに、相撲協会に反発する一派に喝采を送ることで世間は溜飲を下げてゐたのでせう。
序でに申せば、やはり風当りの強い池坊氏の発言も、わたくしは至極当然の常識的なものだと考へます。

さて、何かと伝統伝統と強調する相撲界。しかし実態はどうだつたのか。改革なくして、現在までこの興行が続いてゐるとは思へぬのですが。
本書『雷電本紀』の時代は、力士は各藩お抱へで、スポンサアである藩の意向が色濃く土俵に反映されてゐました。
その為には拵へ相撲もするし、勝負が明らかな一番に物言ひを付けて、強引に預りや引分にしたりするのです。
そんな時代に一人敢然と立ち向かつた雷電。折しも世は飢饉続きで庶民は飢餓寸前、更に悪政が拍車をかけてゐた正にその時、民衆はこの雷電に希望を託したのであります.....

生涯に僅か10敗しかしなかつたといふ強豪力士を主人公にした、骨太の評伝小説であります。あくまでも小説なので、実在しない人物も出れば、時代背景に目を瞑つた部分もあります。しかし改革者の孤独といふものは時代を問はず、普遍性を持つものでせう。同時にその足を引張る一派の愚劣さも同様ですね。
最後の釣鐘新造騒ぎは、純粋な雷電の心持が政争に利用された感があり、眞に腹立たしい。この世渡り下手では、如何に強くても「ヨコヅナ」の称号は遠かつたのでせう。
さはさりながら、力士として以前に、人間として実に魅力的な人物を創造した本作は、細いかも知れないが長く読み継がれるのではないでせうか。




101通りの思いやり
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101通りの思いやり 僕たちの「セプテンバー・フォース」

加山雄三松本めぐみ【著】
徳間書店刊
1994(平成6)年10月発行


若大将こと加山雄三氏の愛船・三代目「光進丸」が焼失・沈没したといふニュウスは衝撃的でした。光進丸は若大将の分身ともいへる存在で、彼はショックのあまり予定されてゐたコンサートも延期したさうです。分かる。しかしその憔悴ぶりは気になるところです。

こんな悲劇に見舞われた若大将に対して、ネット民たちは容赦ない言辞を弄するのであります。
即ち。
曰く「しよせんボンボンの道楽だらう。別に同情は出来ないな。」
曰く「金があるんだから、又買へばいいぢやん、大層に言ふな」
曰く「どうせ保険に入つてゐるのだらう、寧ろ保険金でウハウハぢやね?」

嗚呼、無知とは恐ろしいものよ。少しでも若大将の事を知つてゐれば、かういふ物言ひはあり得ません。初代光進丸から自ら設計をしてきた若大将としては、まるで身内を亡くしたやうなものでせう。
ファンとしては口惜しいばかりなので、せめて著書の一つである『101通りの思いやり』をここで緊急登板させるものであります。
著者名は夫婦連名となつてゐて、夫人の松本めぐみ氏は年齢こそ重ねたものの、「エレキの若大将」にて「わたしは、ドラムのノリコ!」などと自己紹介してゐた頃のキュウトさを今でも残してゐます。この人ゐてこその若大将ですね。

本書は「夫婦」「家族」「自然」などに章分けして、夫々に対する思ひやりといふものを加山流に語るといふ内容。
なほ、彼は結構若い頃から「ヅラ疑惑」が絶えないのですが、これに関しては本人よりも義母(つまり松本めぐみの実母)が悔しがつてゐたさうです。ちやんと世間様にカツラぢやないとアピールせよ、などと主張してゐたとか。

彼は若い頃、自らも役員として名を連ねてゐた会社が倒産した際、当時のお金で23億の負債を背負ひましたが、辛苦の上借金を完済しました。しかしそれはまだ30~40代の若々しい時代。何度も逆境を乗り越えてきた加山氏ですが、さすがに80歳でこの仕打ちはないでせうと切なくなります。
本書を読めば、「世間様」の若大将に対する誤解や偏見がかなり解けるであらうと存じますので、ここで取り上げた次第ですが、まあ誰も読まないだらうなあ。




漢字の気持ち
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漢字の気持ち

高橋政巳伊東ひとみ【著】
新潮社(新潮文庫)刊
2011(平成23)年3月発行


漢字を知つてゐれば良いといふものでもありませんが、やはり漢字の意味や語源を知ると、読書の際の助けにもなりますし、何より豊かな気分になれます。
特にある程度の地位にある人は、寄稿だのスピーチだのの機会も多からうと存じます。「でんでん首相」や「みぞうゆう財務相兼副総理」のレヴェルでは困ると申せませう。

ところで、このひよつとこ太郎氏が最近「有無」を「ゆうむ」と読みました。その時わたくしが思つた事。「確かにゆうむといふ読みは存在するが、世間はまた漢字が読めない大臣と騒ぐだらうな。そして擁護派は『いや、ゆうむといふ読みは間違ひではない、知つたかぶりの無知なアンチが逆に恥を晒した』と反論するであらう」
まつたく想像通りの展開となりましたが、この財務大臣兼副総理はそこまで承知した上で発言した訳ではありますまい。単に有無を「うむ」と読む事を知らなかつたのでせう。踏襲を「ふしゅう」と読んでくれる人ですから。

いや、余計な事を述べてしまつた。
戦後、日本の文化人や学者、為政者は敗戦の一因に、日本語を槍玉に挙げました。こんな不完全で非論理的な言語を国語としてゐるから、世界から文化面でも遅れを取るのだ、なんてね。
中でも漢字は悪者扱ひされ、難しい漢字は簡略化され、なるべく漢字を使はぬ文章が推奨され、いづれはローマ字化したいとの意図が見えました。タイプライターの都合とかで。

しかし今や日本語入力は自在であります。画数の多い漢字でも容易に入力できるのであります。さうであれば漢字の復権は必然と申せませう。
古代中国より輸入された漢字は、日本で独自の発展を遂げ、表意文字として優れた機能を持つてゐます。その語源を辿ると、古代人の生活ぶりや思想が垣間見えるのであります。それを本書では『漢字の気持ち』と優しく表現してゐます。漢字一つ一つに想ひが詰つてゐるのです。今更正字に戻せとは申し上げ難いですが、新字だと元の表意が分からぬ事が多い。例へば「戀⇒恋」や「樂⇒楽」など。
また、本書で紹介される「象⇒為⇒偽」の変遷は不勉強にして存じ上げませんでした。確かに悲しい物語であります。

なほ、巻末付録として「名前に使われる漢字の語源」が収録されてゐます。かつては漢字の意味を尊んで命名されたのに、最近は見た目の字面と読みを優先する傾向があつて、結果他人には読みにくい名前が増えてゐるといふことです。キラキラネームつてやつですな。個人的には、他人から正しく読まれない名前を喜喜として付ける神経が分かりません。
とまあ、いろいろあつてうまくまとまりませんが、少しだけ「漢字の気持ち」が分つたやうな気がする一冊でございます。